1911(明治44)年1月12日、オーストリアのレルヒ少佐が新潟県上越市で高田陸軍歩兵聯隊の青年将校たちにスキーの指導を行いました。
これが
日本で初めて行われたスキー指導だった
とされることから、スポーツ関連事業を展開しているミズノ直営店・エスポートミズノが記念日に制定しております。
レルヒ少佐は日露戦争で帝国ロシアに勝利した日本軍視察のために来日。
当時日本は雪上でも歩いて移動することがほとんどだった時代、レルヒ少佐が雪上を滑るように進む技術に注目した陸軍が教えを請うたそう。
レルヒ少佐がスキー指導を行ったのは、
一本杖スキー
と呼ばれるもので、1本の枝を船をこぐオールのように操り雪上を滑るもの
でした。
ちなみに、スキー指導を行った地・新潟県上越市金谷山スキー場では、例年1月12日に
レルヒ顕彰会
が行われております。
加えて、2月の最初の土日には『レルヒ祭』が催されており、一本杖スキーの
- 実演
- 講習
などが行われている他、金谷山スキー場のリフトが無料などのイベントが実施されております。
また、レルヒ少佐のスキー指導とは別に、1909(明治42)年に富士山麓で指導を含むスキーが行われていたとの記録があるものの、今日で言うところのスキーと呼べるものだったのか、その内容は不詳とされております。が、日本初のスキーやスキー指導に関しては、個人間で行われていたもの含めて諸説あり、雪の多い地域では割と各地に当地が日本で初めてスキーが行われた場所や、『スキー発祥の地』などが点存しております。
テオドール・エードラー・フォン・レルヒ
テオドール・エードラー・フォン・レルヒ(Theodor Edler von Lerch, 1869年8月31日 – 1945年12月24日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人。最終階級は陸軍少将。日本で初めて、本格的なスキー指導をおこなった人物である。
訪日時は少佐で、少佐の時にスキーを日本に伝えたため、日本国内では一般的には「レルヒ少佐」と呼ばれる。後に中佐に昇格したあと日本各地を回ったため、北海道などでは「レルヒ中佐」と呼ばれる。
西ドイツで国防相、追放者・難民・戦災者相、ドイツ連邦議会議長を務めたカイ=ウヴェ・フォン・ハッセルは母方の甥にあたる。
日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、1910年11月30日に交換将校として来日。八甲田山の雪中行軍で事故をおこしたばかりだったこともあり、日本陸軍はアルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキーの弟子であるレルヒのスキー技術に注目。その技術向上を目的として新潟県中頸城郡高田(現在の上越市)にある第13師団歩兵第58連隊(第13師団長・長岡外史、歩兵第58連隊長・堀内文次郎)の営庭や、高田の金谷山などで指導をおこなった。
1911年(明治44年)1月12日に歩兵第58連隊の営庭を利用し鶴見宜信大尉ら14名のスキー専修員に技術を伝授したことが、日本での本格的なスキー普及の第一歩とされている。また、これにちなみ毎年1月12日が「スキーの日」とされている。4月にはエゴン・フォン・クラッツァー(クラッセルとも)とともに富士山でスキー滑降を行う。
1912年2月、北海道の旭川第7師団へのスキー指導のため旭川市を訪問。4月15日21時30分、北海道でのスキー訓練の総仕上げとして羊蹄山に登るため倶知安町に到着。16日午前5時の出発を予定していたが、雨のため1日延期し17日に羊蹄山登山を行い、また羊蹄山の滑走も行った。レルヒの羊蹄登山には小樽新聞・奥谷記者も同行している。
明治天皇の崩御間もない10月21日、レルヒは日本各地の旅行に出た。下関から箱根、名古屋、伊勢、奈良、京都、広島を回り、下旬に門司港から朝鮮半島へ向かった。その後日本から中華民国に渡り満州、北京、上海へ、さらにイギリス領香港を経て12月にイギリス領インド帝国の演習を観戦した後、年明けの1913年1月に帰国した。
なお、レルヒは1本杖、2本杖の両方の技術を会得しており、日本で伝えたのは杖を1本だけ使うスキー術である。これは、重い雪質の急な斜面である高田の地形から判断した結果である。なお、ほぼ同時期に普及した札幌では、2本杖のノルウェー式が主流となっていた。1923年に開催された第一回全日本スキー選手権大会では、2本杖のノルウェー式が圧倒。レルヒが伝えた1本杖の技術は急速に衰退した。
スキー発祥108周年 レルヒ祭 2019