この日「人日の節句」の朝に「七草粥(ななくさがゆ)」を食べて祝う。「七種粥」とも書き、七種も「ななくさ」と読む。
七草粥に入れる「春の七草」は、芹(セリ)・薺(ナズナ)・御形(ゴギョウ)・繁縷(ハコベラ)・仏の座(ホトケノザ)・菘(スズナ)・蘿蔔(スズシロ)の7種類とされ、地方によって食材が異なる場合もある。スズナは蕪(カブ)、スズシロは大根(ダイコン)のことである。
七草粥には、その年の無病息災を願うとともに、正月の祝膳や祝酒で弱った胃を休める目的もある。
この行事は平安時代には行われていたが、室町時代の汁物が原型とも言われている。また、この日は七草をゆでた汁に爪を浸し、柔らかくしてから切るときれいに切れることから「七草爪の日」とも言われる。
七草粥の文化
この7種の野菜を刻んで入れたかゆを七草がゆといい、邪気を払い万病を除く占いとして食べる。呪術的な意味ばかりでなく、御節料理で疲れた胃を休め、野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うという効能もある。
七種は、前日の夜にまな板に乗せて囃し歌を歌いながら包丁で叩き、当日の朝に粥に入れる。囃し歌は鳥追い歌に由来するものであり、これは七種がゆの行事と、豊作を祈る行事が結び付いたものと考えられている。歌の歌詞は「七草なずな 唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、合わせて、バタクサバタクサ」など地方により多少の違いがある。
七種の行事は「子(ね)の日の遊び」とも呼ばれ、正月最初の子の日に野原に出て若菜を摘む風習があった。『枕草子』にも、「七日の若菜を人の六日にもて騒ぎ……」とある。
覚え方と呼べるような語呂合わせは知られていないが、上記のとおりに並べると五七調になり覚えやすい。
七草粥の歴史
古代より日本では、年初に雪の間から芽を出した草を摘む「若菜摘み」という風習があり、これが七草の原点とされる。また六朝時代の中国の「荊楚歳時記」に「人日」(人を殺さない日)である旧暦1月7日に、「七種菜羹」という7種類の野菜を入れた羹(あつもの、とろみのある汁物)を食べて無病を祈る習慣が記載されており、「四季物語」には「七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや」とある。このことから今日行われている七草粥の風習は、中国の「七種菜羹」が日本において日本文化・日本の植生と習合することで生まれたものと考えられている。
日本では古くから七草を食す習慣が行われていたものの、特に古代において「七草」の詳細については記録によって違いが大きい。『延喜式』には餅がゆ(望がゆ)という名称で「七種粥」が登場し、かゆに入れていたのは米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆の七種の穀物で、これとは別に一般官人には、米に小豆を入れただけの「御粥」が振舞われていた。この餅がゆは毎年1月15日に行われ、これを食すれば邪気を払えると考えられていた。なお、餅がゆの由来については不明な点が多いが、『小野宮年中行事』には弘仁主水式に既に記載されていたと記され、宇多天皇は自らが寛平年間に民間の風習を取り入れて宮中に導入したと記している(『宇多天皇宸記』寛平2年2月30日条)。この風習は『土佐日記』・『枕草子』にも登場する。
その後、旧暦の正月(現在の1月~2月初旬ころ)に採れる野菜を入れるようになったが、その種類は諸説あり、また地方によっても異なっていた。現在の7種は、1362年頃に書かれた『河海抄(かかいしょう)』(四辻善成による『源氏物語』の注釈書)の「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」が初見とされる(ただし、歌の作者は不詳とされている)。これらは水田雑草ないし畑に出現するものばかりであり、今日における七種類の定義は日本の米作文化が遠因となっている。
江戸時代頃には武家や庶民にも定着し、幕府では公式行事として、将軍以下全ての武士が七種がゆを食べる儀礼を行っていた。
七草がゆのレシピ・作り方