神奈川県横浜市西区に本社を置き、フライドチキンチェーン店「ケンタッキーフライドチキン」(KFC)などを運営する日本KFCホールディングス株式会社が制定。
1970年(昭和45年)のこの日、愛知県名古屋市郊外に「ケンタッキーフライドチキン」の日本第1号店がオープンした。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
当時の日本には「フライドチキン」という言葉も食べ方も馴染みがなかったが、KFCの店舗が増えるにつれて広く知られるようになる。その後、KFCの行ったクリスマスキャンペーンを契機に、フライドチキンがクリスマスのご馳走として定着した。
1939年(昭和14年)に創業者であるカーネル・サンダース(Colonel Sanders、1890~1980年)によって考案されたフライドチキンの調理法があり、使用される調合スパイスの種類(一部公開)と調合率はごく一部の人にしか知られておらず、この調理法はカーネル・サンダース考案の頃から変わっていない。
世界規模でチェーン店を展開しているKFCは、世界で初めてフランチャイズビジネスを創始した会社でもある。9月9日はカーネル・サンダースの誕生日にちなんで「カーネルズ・デー」となっている。
ケンタッキーフライドチキンの歴史
カーネル・ハーランド・サンダースは1890年に生まれ、インディアナ州のヘンリービル郊外の農場で育った。13歳で実家を離れたあと、サンダースは鉄道職員や保険外交員などいくつかの職業に就いたが、そのキャリアは常に順調というわけではなかった。
1930年、サンダースはケンタッキー州ノースコービン(アパラチア山脈のはずれにある小さな町)を通る国道25号線沿いのシェルのガソリンスタンドの経営を引き受けた。その年の6月までに、サンダースは物置を改造して自前のダイニングテーブルを設置し、小さな食事スペースをつくった上で、立ち寄ったドライバーにステーキやカントリーハムなどの料理を提供するようになった。1934年、反対側の給油所の方がドライバーの視界に入りやすいため、サンダースは国道25号線の向かい側にあるピュア・オイルのガソリンスタンドの経営を前任者から引き継いだ。サンダースがフライドチキンの販売を始めたのもこの時からだった。1936年までには、サンダースが経営するビジネスの成功は広く認められるものになっており、ルビー・ラフーン知事からケンタッキー・カーネルの名誉称号を授与されるほどだった。1940年7月、サンダースは「11種のハーブとスパイスからなるオリジナルレシピ」として後に知られるようになるレシピを完成させた。
1950年にローレンス・ウェザビー知事によってケンタッキー・カーネル(名誉大佐)に再任命されたあと、サンダースはその立場にふさわしい服装をするようになった。ヤギひげを生やし、黒のフロックコート(後に白のスーツに変更)とストリング・タイを着用したサンダースは、自らを「カーネル」の肩書きで呼んだ。サンダースのレストランの客のほとんどは車で移動するドライバーであり、1955年に計画中の州間高速道路75号線のルートがケンタッキー州コービンをバイパスすることが公表されたとき、サンダースは資産を売り払ってアメリカ各地を回り、レストランのオーナーに自らのフライドチキンを売り込んだ。サンダースは、1952年にはすでにユタ州サウス・ソルトレイク市のピート・ハーマン(市内でも最大規模のレストランの経営者)にフライドチキンのレシピをフランチャイズして成功を収めていた。
「ケンタッキーフライドチキン」という名称は、ハーマンが雇った看板書きのダン・アンダーソンによって創り出された。サンダースは、この名称が自分のフライドチキンと一般のレストランで提供される「南部風フライドチキン」(ディープフライで調理される)をはっきりと区別するのに役立つと考え、自らのビジネスにも取り入れた。
1964年、サンダースはジョン・Y・ブラウンらのグループに200万ドル(2013年の貨幣価値で約1500万米ドル)でKFCを売却した。売却に際しての契約内容には、サンダースへの終身給与の支給に加え、サンダースが品質管理責任者として役職にとどまり、会社のトレードマークとしてコマーシャルに出演するという合意が含まれていた。1967年までに、KFCはアメリカで6番目に売上高の大きいレストランチェーンに成長しており、その売り上げの30パーセントがテイクアウトによるものだった。1970年には、KFCチェーンは48の国で3000の店舗を抱えていた。1971年7月、ブラウンはKFCを、コネチカット州に本拠を置く加工食品・加工飲料会社のヒューブライン社に2億8500万ドル(2013年の貨幣価値で約16億米ドル)で売却した。ヒューブライン社には過去にファストフード店を経営した経験がなく、その自信過剰な経営は香港のような海外市場においてKFCを失速させた。1975年には2年間の活動の後、KFCは香港での事業から撤退した。1977年、ヒューブライン社はマイケル・A・マイルズをKFCチェーンの経営者に抜擢した。マイルズは、経営難のKFCを原点回帰路線で立て直した功労者と見なされている。
1980年には、肺炎によりハーランド・サンダースが90歳で死去した。サンダースは死の直前まで、自らの商品を宣伝しつつ、年間20万 – 25万マイルを主に車を利用して旅していた。
1983年の時点で、全世界55の国で5800のKFC店舗が存在していた。同じ1983年には、ゼネラル・シネマがヒューブライン社の株式の18パーセントを取得した。敵対的買収を警戒したヒューブライン社は、タバコ会社R.J.レイノルズに自社のホワイト・ナイトとなるよう申し入れ、R.J.レイノルズが13億ドルでヒューブライン社を買収することになった。R.J.レイノルズの傘下となったKFCは、1983年にマクドナルドチェーン全体で展開されたチキンマックナゲットとの競争を強いられた。KFCは1985年に「ケンタッキーナゲット」と呼ばれる独自ブランドのチキンナゲットを発売した。
1986年7月、R.J.レイノルズはKFCをペプシコに簿価8億5000万ドル(2013年の貨幣価値で約18億米ドル)で売却した。1987年11月、KFCは北京に出店し、中国で展開する最初の欧米のレストランチェーンとなった。1989年、第1四半期におけるKFCの売り上げは30パーセント上昇し、その金額は2億8000万米ドルに達した。1991年6月、シンガポールの店舗でKFC史上初となる朝食メニューの販売が開始された。KFCはアメリカ市場で苦戦を強いられ、ペプシコのレストラン部門でもっとも貧弱な事業となっていたが、その一方でアメリカ以外の市場では急成長を遂げていた。なかでも、日本のKFCは特筆すべき成功を収めていた。1992年になる頃には、KFCの売上高の半分近くがアメリカ国外の市場で稼ぎ出されていた。1993年までに、アジア太平洋地域における売り上げはKFC全体の売上高の22パーセントを占めるほどになった。
1997年8月、ペプシコは自社のレストラン部門を「トライコン・グローバル・レストランズ」として分離独立させた。トライコン社は2002年に名称をヤム・ブランズに変更した。ヤム・ブランズはKFCのオーナーとして、ペプシよりも明確な意志を持った経営を行っており、アメリカ国内の店舗数は減少したものの、KFCはアジア、南アメリカ、アフリカ地域で成長を続けている。2015年末の時点で、KFCは全世界125の国と地域で1万9952店舗を展開しており、KFCにとって最大の市場である中国には5003店舗が存在する。
2020年6月、同年11月12日にゲーム機「KFConsole」を発売すると発表。異例ともいえる飲食業からのゲーム機市場参入となった。
調理方法
カーネル・サンダース(本名:Harland David Sanders 1890年 – 1980年)によって1930年にケンタッキー州コービンのガソリンスタンドに「サンダースカフェ」が併設され人気を得た。1939年に考案されたフライドチキンの調理法が礎になっており、調理機材などの進化はあるにせよ、基本的な調理法はまったく変わっておらず、90年以上同じ味を維持し続けている
カーネル・サンダースが直筆で書いたレシピは過去68年間本社から動かされることがなかったが、セキュリティの近代化に伴い、レシピも新たな場所へと移動された。このことがニュース記事となったほどである。
ケンタッキーの「オリジナルチキン」ができるまで| KFC