1910年(明治43年)のこの日、東京・代々木錬兵場(現:代々木公園)で陸軍軍人(工兵大尉)徳川好敏(とくがわ よしとし、1884~1963年)が日本初飛行に成功した。
飛行機はフランス製のアンリ・ファルマン式複葉機で、飛行時間は4分・最高高度は70m・飛行距離は3000mであった。
実際には5日前の12月14日に、陸軍軍人・日野熊蔵(ひの くまぞう、1878~1946年)が飛行に成功していたが、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤って離陸」と報告された。
この日12月19日は「公式の初飛行を目的とした記録会」として行われ、徳川、日野の順で飛び、共に成功した。これにより日本における動力機初飛行として公式に認められた。
この日は「日本初飛行の日」ともされる。ちなみに、徳川は、徳川家の血筋であり、徳川御三卿の一つ清水徳川家の第8代当主にあたる。日野は、発明家でもあり、当時は天才発明家などと報道されていた。
1974年(昭和49年)12月、東京・代々木公園に「日本初飛行の地」の碑が建立された。また、徳川と日野の胸像も並んで設置されている。2010年(平成22年)12月19日、日本における初飛行100周年を迎え、同公園では記念式典が開催された。
世界における動力初飛行は、日本初飛行の7年前の1903年(明治36年)12月17日にライト兄弟により行われ、12月17日は「飛行機の日」となっている。その他、関連する記念日として10月25日の「民間航空記念日」や3月6日の「世界一周記念日」などがある。
日本における動力機初飛行
1910年12月14日、代々木練兵場(現・代々木公園)において滑走試験中の日野熊蔵は飛行に成功し、これが日本国内初の動力飛行機の初飛行とされる。しかし、初飛行の根拠となっている距離は「初飛行」を報じた萬朝報の記事内の60mは記者の目測でしかなく、取材していた他9紙は距離を記載しておらず初飛行とも報じていない。また、当時欧州で数少ない実際の飛行を見たことがある日本人であり、飛行機研究の第一人者だったこともあって、事実上の現場責任者として間近で注視していた田中館愛橘博士や、実際に操縦した日野自身もこれが初飛行であったとの発言は行っていない。記者自身も後日、「すこしでも地を離れると、手を叩いたり、万歳を叫んだりした。」と書いている。また、「飛行」とは翼の揚力が機体の重量を定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態を指すため、「飛行」ではなく「ジャンプ」であるとして、航空力学的にも初飛行とは言えないとする意見もある。
19日には“公式の、初飛行を目的とした記録会”が行われ、日野・徳川の両方が成功し、これが改めて動力機初飛行として公式に認められた。記録会前においては、当時天才発明家などと報道されていた日野の方が遥かに有名人であり、新聞記者も徳川好敏には直前までほとんど取材活動をしていなかったが、徳川、日野の順に飛んだため、“アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行”ということにされている。これは、徳川家の血筋でありながら没落していた清水徳川家の徳川好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍および華族らの意向だったといわれている。ただ、たとえ名家の出身であっても陸軍の方針として軍内部での扱いは表面上は平民と同じであった事、またこの時期の清水徳川家の没落の状況は、先代の徳川篤守が経済的に困窮し爵位を返上し、また禁固刑を下されるなど不名誉な状態であったため、この指摘は適切ではないとする意見もある。ただそういう状態であったために、徳川御三卿の一家の名誉回復の、またとないチャンスであったのは事実である。 ともあれ、日野の記録は抹消され、12月19日の徳川の飛行をもって「日本初飛行の日」とされている。
以降、徳川は陸軍の航空機畑の看板として順調に引き立てられ、滋野清武らを排除して出世した。滋野の飛行免状は世界中で通用する万国飛行免状で徳川のフランス国内限定の操縦士資格免状より格上であり、更に滋野の方が飛行技術も教え方もずっと上だったことが徳川は気に入らなかったと言われている。いびり出された滋野はフランスへ渡り、第一次大戦でエースパイロットとなる。一方の日野は翌年自身が設計の機体、日野式飛行機を開発するがそれでも左遷され、以降軍務において航空機関連に用いられることはなかった。
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