1933(昭和8)年12月26日、神奈川県横浜市で
自動車製造株式会社
が設立されました。
日本産業会社を設立した鮎川義介氏が、一般大衆車として人気のあった国産車「ダットサン」の製造権を懇願の末い譲り受けることに成功。
ダットサン製造会社
として新たに自動車製造株式会社を起こしました。
翌1934(昭和9)年には
日産自動車会社
に改称されております。
創業から続く技術力の高さを活かした車が評判を呼び、
技術の日産
旗は日の丸、車はダットサン
として多くの人々に親しまれることとなりました。
加えて、
- 故障が少ない
- 高速走行が優れている
ことから、医療関係者の往診時使用車としても愛用されたことから、
医者のダットサンとしても呼ばれるなど、自動車産業での地位を堅実なものにしていきました。
2017(平成29)年の時点では、フランスの自動車大手ルノーと共に、ルノー = 日産アライアンスとして、三菱自動車工業の筆頭株主も担っております。
日産自動車歴史
第二次世界大戦前は日産コンツェルンの一員であった。「日産」という名称は、当時グループの持株会社であった日本産業が由来となっている。
創業期より先進技術の吸収に積極的で、日産自動車は日本フォードや日本ゼネラル・モータースなみの大型乗用車を製造するため、1936年にアメリカのグラハム・ペイジから設計図や設備などを購入し、また戦時中の技術的空白を埋めるため、1952年にイギリスのオースチンと技術提携している。
1958年には、当時世界で最も過酷なオーストラリア大陸一周ラリーに自社開発のダットサン・210型で出場してクラス優勝を飾り、1960年には業界初のデミング賞を受賞するなど、創業時より技術力の高さから「旗は日の丸、車はダットサン」、「技術の日産」として親しまれ、故障が少なく高速走行を得意としたことで医者の往診に愛用されたことから「医者のダットサン」としても親しまれた。
1966年8月1日には、経営難に陥ったプリンス自動車工業を通産省主導により合併。スカイライン、グロリアなどの車種と、中島飛行機・立川飛行機の流れを汲む人材を戦列に加えた。またプリンス自動車工業の宇宙開発事業を承継し宇宙航空事業部を発足させた。
1973年の米国環境庁 (EPA)の燃費テストでサニーは第1位となり、この間、燃費向上のための高張力鋼板およびボディの防錆性の向上のための亜鉛ニッケルメッキ合金を用いた防錆鋼板(同社では「デュラスチール」と命名)、エンジンの燃焼制御技術の開発からCAD/CAM、産業用ロボットの開発まで、「技術の日産」として先端技術分野の先駆的役割を果たしてきた。
しかし、その反面、戦時中に自動車の配給を独占していた「日本自動車配給株式会社」が戦後に解散となった際、日本国内各地の地元の有力ディーラーの大半がトヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)に組織化されたために販売力でハンデがついてしまい、技術面では「技術の日産」と評されるほどに優位を保っていた反面、販売面ではマーケティングと販売戦略で業界トップとなったトヨタには及ばず、1970年代までトヨタに肉薄していた日産の販売シェアは、特に1980年代以降、トヨタとの差は広がる一方となる。
ダットサン510ブルーバード
日産・スカイライン(3代目)C10型
日産・フェアレディZ(初代)S30型
日産・フェアレディZ(2代目)S130型
歴代スカイラインCM「愛のスカイライン編」デラックス1500~ハコスカまで