1890年(明治23年)のこの日、東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始し、千代田区に設置された電話交換局が営業を始めた。
加入電話は東京155台・横浜44台、電話交換手は女子7人・夜間専門の男子2人が対応した。当時の電話料金は定額料金で東京が40円・横浜35円。この時代、1円で米が15kg買えたため、今の値段にすれば40円は24万円くらいに相当し、当時の電話はとても高価なサービスだったことが分かる。
これよりも21年前の1869年(明治2年)10月23日、横浜裁判所構内に電信機役所が設置され、東京~横浜間で公衆電信線の架設工事が始まった。これに由来して10月23日は「電信電話記念日」、10月20日~26日は「電信電話週間」となっている。
東京~横浜間で電信サービスが開始されたのはその翌年の1870年(明治3年)のことである。
さらに、1876年(明治9年)にアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell、1847~1922年)が電話機を発明すると、翌1877年(明治10年)には工部省が電話機を早速輸入して実験を行い、電話機の国産化に着手した。
そして、上記のように1890年(明治23年)に逓信省により東京~横浜間の電話交換サービスが開始され、電信・電話は同省の下で運営管理されることになった。
当時の電話には電話交換手という電話の回線をつなぐ業務を行う人がいた。電話局内にある交換台において、一組の電話プラグを適切なジャックに差し込むことで、電話の回線を接続し、電話で話すことができた。そのため、電話をかける時は、最初に電話局の交換手を呼び出し、相手の電話に接続してもらっていた。
電話の交換手
自動交換機の登場以前は、共同加入回線を介して電話をかける以外では、交換手の補助が不可欠だった。初期の電話機には電話番号を入力するためのコンソールがなく、受話器を上げて電源を入れると、交換手の詰める電話局に直通した(。
発呼者はまず、電話局の交換手と話をする。発呼者は交換手に、呼び出したい相手先を伝え、交換手はその要求に従い、パッチパネルの構造を持つ、手動の電話交換台により、接続用ケーブル両端の電話プラグを、交換機にある発呼者側・着信側それぞれのジャックに差し込むことによって回線を接続し、互いの通話を可能にした。
6.3ミリメートル(4分の1インチ)径のプラグおよびジャックを「フォーンプラグ」「フォーンジャック」と呼ぶのは、このときに交換機に広く用いられた規格に由来する。
電話交換手は一般的に、非常に強力なコミュニケーション能力が必要とされた。交換手の遠距離ダイヤル通話と顧客の長距離直接通話(DDD)回線が登場する前は、電話交換手が遠方の電話局にいる相手と協力して長距離電話(いわゆる市外通話)を完了していた。通話は完全管理の状態で、交換手はプライベートな会話を聞くことができる立場だった。
固定電話から固定電話への公衆回線だけでなく、オフィスビル等で内線電話をさばくための交換手も存在した。代表番号でかかってきた電話呼び出しに応じ、内線交換機(PBX)を用いて正しい部署に接続する業務だった。内線オペレーターの役割および責任の度合いは雇用規定によって大きく異なった。公衆回線同様、交換の自動化(後述)が果たされ、受付やモーニングコールのような種類のコンシェルジュ的な業務だけが名残りとなった。
昭和時代の電話交換手の1日を追った