日本におけるDJ(ディスクジョッキー)の草分け的存在だった糸居五郎氏の活動や業績を称えて、同氏の命日に追悼の意を込めて、ラジオ番組の製作やDJの養成など手がけている株式会社サンディが12月28日に記念日を制定しております。
糸居五郎氏 忌日 1984(昭和59)年12月28日
糸居氏は、ニッポン放送局の人気ラジオ番組
オールナイトニッポン
の初代ディスクジョッキーとしても活躍し、リスナーからの投書やリクエストが番組の主力とされるラジオ番組において、
音楽はDJがかけるものとの信念で自ら選曲にこだわったことなど、最初で最後の職人DJとも称されております。
糸井五郎氏の経歴
ジャーナリストで、地域向け新聞『小石川新聞』の編集・発行を手掛けていた糸居銀一郎の五男(末子)として、東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)音羽に生まれる。本人は、父に鉱石ラジオのレシーバーを頭にかぶらされて聴いていたと、その自分の子供時代を語っている。東京市指ケ谷尋常小学校(現・文京区立指ケ谷小学校)に入学した1927年にその父を亡くす。
小学生時代から、兄の影響でジャズが好きになる。本人曰く、ジャズの曲の英語詞を口ずさみながら学校に通っていたとのこと。また、小学生時代には大河内傳次郎ファンになったが、旧制中学時代はアメリカ映画ファンになったという。その後、戦中・戦後を通じ、ファッツ・ウォーラー、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、アル・ジョルソン、キャブ・キャロウェイ、レッド・ニコルズらを好んで聴いていたという。
1933年、府立第三商業学校(現・東京都立第三商業高等学校)入学。在学中の1936年、同級の塩田英二郎(のちの漫画家)と共に全国学生ポスター展に入選、銀の優勝盃を受ける。商業学校を卒業した1938年、11歳上の兄が官吏として赴任していた満州に渡り、新京(現・長春市)の和田英学院で英語を学ぶ。1940年に卒業。同年、徴兵検査のため日本に帰国するが、体重が軽すぎたために第二乙種合格となり、徴兵を免れる。
1941年5月、アナウンサーとして満洲電信電話株式会社新京中央放送局に入局。当時同局に勤めていた8歳年長の森繁久彌からアナウンス指導を受けた。同年11月には哈爾浜中央放送局に転任。その後ハイラル放送局に転任、1945年、大連で終戦を迎え、そのまま満洲に抑留。放送局閉鎖でアナウンサーの仕事がなくなったため、「放送局のスタジオでこっそりジャズを聴いていた仲間」で結成した「大連放送管弦楽団」で活動。のちにはジャズミュージシャンの川口養之助(ジョージ川口の父)の勧めで、営業を再開した現地のダンスホールで働いた。終戦約1年半後の1947年に引き揚げる。
アナウンサーに復職
東京へ戻ったのち、日本放送協会(NHK)への入局を望むが、定員超過という事情で叶わず、しばらくは東京・神田小川町で、友人と共同出資して輸入食料品店「ひつじ屋」を開業し、進駐軍物資の横流しで生計を立てた。
アナウンサーとして復帰するにあたり、ラジオ東京(のちのTBSラジオ)と京都放送(のちのKBS京都)から誘いを受けていたが、当時開局を控えていた京都放送にチーフアナウンサーとして1951年10月入社。同局ではニュース、スポーツ中継の担当アナウンサーとして活動したほか、翌1952年には民放初の本格的DJ番組とされる『アルファベット・ジャズ』を担当。1953年には愛媛県のラジオ南海(RNB)に出向し、第8回国民体育大会(四国国体)中継と、開局間もない期間のアナウンススタッフ養成に携わった。同局の開局第一声及び開局日のニュースも担当している。
1954年7月、ニッポン放送の子会社・株式会社深夜放送に入社し、『深夜のDJ』という番組を担当。なお、1954年7月15日のニッポン放送開局第一声「ただいまから開局いたします」は、糸居によるものである。1959年10月からは『オールナイトニッポン』の前身番組『オールナイトジョッキー』を担当。1963年2月の同番組において、ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」を日本で最初にオンエアしている。
オールナイトニッポン
1967年10月、『オールナイトニッポン』が放送を開始し、糸居は月曜日(のちに金曜日や水曜日)を担当(→『糸居五郎のオールナイトニッポン』)。同年、株式会社深夜放送とニッポン放送の合併にともない、ニッポン放送の所属となる。50歳の誕生日を迎えた1971年1月17日午後1時30分より『50時間マラソンジョッキー』を敢行(1月19日午後3時30分ゴールイン)。1972年9月、いったん『オールナイトニッポン』を降板し、音楽番組『ソウル・フリーク』や歌謡番組を担当。しかし、リスナーからの強い要望により、1975年1月に復帰。その間、エフエム東京に出向して「Music Spacial in DAC」という音楽番組を担当していた時期もあった。
1980年6月、ニッポン放送を定年退職。定年記念に公開生放送を行った。定年後も引き続き『オールナイトニッポン』を担当したが、1981年に降板を表明。特別番組となった同年6月30日深夜の最終回の放送は4時間にわたるファンを集めての公開放送となった。
糸井五郎のオールナイトニッポン