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12月8日今日は何の日?:ジョン・レノン忌 / レノンズデー

投稿日:

ロックバンド・ビートルズのメンバーの一人であり、

20世紀を代表するミュージシャンと称される

ジョン・レノン氏の忌日。

1980(昭和55)年12月8日アメリカ・ニューヨークの自宅アパート前で熱狂的なファンが放った凶弾に倒れました…。

享年:40歳

 

1980年12月8日

自宅たるニューヨーク高級集合住宅ダコタ・ハウスの入口にてジョンはマーク・チャップマン(Mark David Chapman)に1980年12月8日(月)22時50分ごろ銃撃された。ジョンは妻オノ・ヨーコとともに、レコード・プラント・スタジオ から帰宅したところだった。

ジョンは市内のルーズヴェルト病院に搬送されたが、到着してすぐに死亡が宣告された。40歳であった。病院で発表された声明では、このような重傷を負ったあとで数分以上生存することは、誰にとっても不可能であると述べられた。地元のニュース局がジョンの死を報道するとすぐに、病院とダコタ・ハウスの前に群衆が集まり始めた。ジョンは1980年12月10日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡のファーンクリフ墓地で火葬され、遺灰 はヨーコに渡されたが、彼女はジョンの葬儀は執り行わないことを決めた。全米にジョンの死を伝えた最初のメディアによる報道は、 ABCのNFL中継番「マンデーナイトフットボール」での、コメンテーターのハワード・コーセルによるアナウンスだった。

殺害現場となったダコタ・ハウス

写真家のアニー・リーボヴィッツが、雑誌『ローリング・ストーン』のための写真撮影を行うため、ジョンの自宅を訪れた。リーボヴィッツは当初、ジョンのみを撮影しようとしていた。リーボヴィッツは「ヨーコの写真が表紙に載ることを誰も望んでいなかった」と述べている。しかし、ジョンが自分と妻がともに表紙に載ることを強く主張したため、リーボヴィッツはヨーコと一緒の写真が雑誌の表紙を飾ることを約束した]。撮影が終わった15時30分、リーボヴィッツはダコタ・ハウスを出た。この写真撮影のあと、ジョンはRKOラジオ・ネットワークの音楽番組で放送される予定の、サンフランシスコのDJ、デーヴ・ショリン(Dave Sholin)によるインタビューに応じたが、これが彼の最後のインタビューとなった。17時40分、迎えのリムジンが遅れて到着し、ジョンとヨーコは「Walking on Thin Ice」(ジョンがリード・ギターを担当したヨーコの曲)のミキシング作業を行うため レコード・プラント・スタジオに向かった。

 

マーク・デイヴィッド・チャップマン

ジョンとヨーコがRKOラジオ・ネットワークのスタッフとともにリムジンに向かう途中、サインを求める人が数名近づいてきた。その中の1人にマーク・デイヴィッド・チャップマンがいた。このころ、ダコタ・ハウスの外でファンがジョンを待ち構えてサインをねだるのはよくあることだった。ハワイのホノルルから来た25歳の警備員チャップマンは、その年の10月(アルバム「ダブル・ファンタジー」のリリースよりも前)にもジョンを殺害するためニューヨークを訪れていたが、そのときは心変わりして帰郷していた。チャップマンがジョンに「ダブル・ファンタジー」を無言で手渡し、ジョンがサインした。アルバムにサインし終えたジョンが「君がほしいのはこれだけかい?」(Is this all you want?)と尋ねると、チャップマンは笑顔で頷いた。写真家でジョンのファンであるポール・ゴレシュ(Paul Goresh)は、この遭遇の瞬間を写真に収めている。この時ジョンがサインした「ダブル・ファンタジー」は証拠品として警察に押収され、のちにオークションへ出品。1999年に15万ドルで売却された後、2010年に85万ドル、2017年には150万ドルで売りに出された。

チャップマンは、その日の午前中からダコタ・ハウスの外でジョンを待ち構えており、午後にはベビーシッターのヘレン・シーマン(Helen Seaman)とともに帰宅したところのジョンの息子ショーン(当時5歳)にも遭遇している。チャップマンによれば、彼はショーンの手を、ちょっとの間触ったという。

レノン夫妻は22時50分ごろダコタ・ハウスに戻るまで、数時間をレコード・プラント・スタジオで過ごした。ジョンは夕食を外でとるのを取りやめ、息子におやすみのあいさつをするために一旦ダコタ・ハウスに戻ってから、ヨーコとともに近くのレストランステージ・デリへ向かうことにした。ジョンは自分に会うために長い時間待つファンに対しては、誰にでもサインや写真撮影に応じていた。ジョンは、1980年12月6日の BBCラジオ1でのインタビューで、DJのアンディー・ピーブルズに対し「みんなやって来てはサインをねだったり、’ハイ’とあいさつするだけで、困るようなことをするわけじゃない」(”People come and ask for autographs, or say ‘Hi’, but they don’t bug you.”)と話している。そのため、レノン夫妻はダコタ・ハウスのより安全な中庭でリムジンを停車させる代わりに、手前の72丁目で車を降りた。

ダコタ・ハウスのドアマンで元CIAのエージェントであったホセ・サンヘニス・ペルドモと付近にいたタクシー運転手は、チャップマンが歩道上で、玄関アーチの陰にひそんで立っているのを目撃している。ジョンはチャップマンの前を通り過ぎる際、チャップマンを一瞥し、先に会ったことを思い出していたようであったという。その数秒後、チャップマンはチャーター・アームズ社製の.38スペシャル弾用回転式拳銃、アンダーカバーでジョンの背中の中央に狙いを定め、 ホローポイント弾を5発、およそ3メートル(9~10フィート)離れたところから立て続けに発射した。その夜にニューヨーク市警察が出した声明や、様々なメディアの報道によれば、チャップマンは発砲する前に大声で「レノンさん」(”Mr. Lennon”)と呼びかけてから、銃をコンバット・スタイルで構えた。のちに開かれた公判での聴取や目撃者へのインタビューには、「レノンさん」という呼びかけや、コンバット・スタイルについての言及はない。チャップマン自身は、発砲前にジョンの名前を呼んだか覚えていないと述べているが、1992年にバーバラ・ウォルターズから受けたインタビューでは、コンバット・スタイルを取ったことは認めている。1発目の銃弾は命中せずにジョンの頭部のそばをかすめてダコタ・ハウスの窓に当たった。続く2発の銃弾はジョンの背中左側に命中し、そのあとの2発がジョンの左肩を貫通した。ジョンは銃傷と口からおびただしく出血し、「撃たれた、撃たれた!」(”I’m shot, I’m shot”)と言いながらダコタ・ハウスの受付への階段をふらふらと5段登った。そこでジョンは床の上に崩れ落ち、持ち歩いていたカセット・テープが散乱した。ダコタ・ハウスのコンシェルジュ、ジェイ・ヘーステングス(Jay Hastings)は、まず止血帯を作りはじめたが、複数の銃傷による苦痛をやわらげるためジョンの血染めのシャツを取り、すぐに自分の制服のジャケットをジョンの胸部に被せ、血のついた眼鏡を外してから警察を呼んだ。

外ではドアマンのペルドモが、チャップマンの手を揺さぶって銃を離させると、その銃を歩道の端へ蹴り飛ばした。するとチャップマンはコートと帽子を取って警察の到着に備えたうえで(武器を隠し持っていないことを警察に示すため)、歩道に腰かけた。ペルドモが「お前は自分が何をしでかしたのか分かってるのか?」(”Do you know what you’ve just done?”)と大声で問いかけると、チャップマンは静かに「ええ、僕がジョン・レノンを撃ったんです」(”Yes, I just shot John Lennon”)と静かに答えた。現場に最初に到着した警官はスティーヴ・スパイロ(Steve Spiro)とピーター・カレン(Peter Cullen)で、ダコタ・ハウスでの発砲事件の通報を受けたときには、72丁目とブロードウェイ の辺りにいた。それからおよそ2分後に警官たちが現場に到着すると、「とても静かに」歩道上に座っているチャップマンを見つけた。そのときチャップマンは、銃を路上に放り出してJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のペーパーバックを持っていた、と警官たちは報告している。チャップマンは即座に手錠をかけられてパトカーの後部座席に押し込まれた。チャップマンは逃げようとしたり、逮捕に抵抗する様子がまったくなかった。

その数分後に現場に到着したのは、ビル・ギャンブル巡査(Bill Gamble)とジェームズ・モラン巡査(James Moran)のチームであった。彼らはジョンの負傷がひどいことを知り、救急車を待たずにジョンをパトカーの後部座席へ乗せてルーズヴェルト病院へ搬送することにした。モラン巡査が「あなたはジョン・レノンですか?」(”Are you John Lennon?”)と問いかけると、ジョンは頷いて「”Yes”」と答えたという。しかしこれとは別の報告によると、ジョンはわずかに頷きしゃべろうとしたが、喉からゴロゴロ音を出すことしかできず、そのあとすぐに意識を失ったという。

23時前にギャンブル巡査とモラン巡査がルーズヴェルト病院に到着したとき、救急救命室でジョンを迎えたのはステファン・リン博士(Dr. Stephan Lynn)であった。パトカーの後部座席からモラン巡査がジョンを背負って患者搬送用の台車付き担架の上に載せると、救急救命室へ搬送する途中、医師に複数の銃傷を受けた患者の処置を依頼した。ジョンは到着時にはすでに脈拍がなく呼吸も止まっていた。リン博士と他の2人の医師、そして看護師1人が、15~20分かけてジョンを蘇生させるための処置を行った。リン博士は心拍を復活させるため、最終手段としてジョンの胸部を切開して、直接手で心臓をマッサージしようとしたが、心臓周辺の血管の損傷が大きすぎることを発見した。リン博士によれば、ジョンの死亡宣告時刻は23時15分ごろであったとされるが、時刻は23時7分であったとする報告もある。ジョンの遺体は 1番街520にある市の遺体安置所に運ばれ、そこで検視が行われた。死因は、胸部と大動脈弓を貫通している複数の銃傷のため、循環血液量の80%以上を失ったことにより引き起こされた「出血性ショック」と報告された。ジョンの検視を担当した病理学医はその報告書において、どんなに迅速に医療処置を施したとしても、このように多くの銃傷を負って数分以上生存することは、誰にとっても不可能であると述べた。

病院の外科医は、他の目撃者と同様、ジョンの死亡が宣告された時に院内放送でビートルズの楽曲「オール・マイ・ラヴィング」が流れていたと述べている。

ジョンの背中に当たった4発の銃弾のうち、3発は胸部から外に出てジョンの体を貫通しており、もう1発は心臓のそばの大動脈に当たって止まっていたため、合計で銃傷は7つとなり、そのほぼすべてが致命傷であった。ジョンは4発のホローポイント弾(標的に当たると膨張し、標的の体内を通る際に組織をより大きく損傷させる)で撃たれていた。そして弾丸の作用が及んだジョンの器官、特に左の肺と心臓周辺のおもな血管が、衝撃によりほとんど破壊されていた。リン博士は「もしジョンが処置の準備が整った外科医のチームが待機している処置室の中で同じように撃たれたとしても、損傷から生還することはできなかっただろう」と述べている。リン博士に夫の死を告げられたヨーコはすすり泣きながら、「Oh no, no, no, no …」「嘘だって言ってよ」(”tell me it’s not true”)と言った。博士は、ヨーコが倒れこんで床に頭を打ちつけ始めたが、看護師が彼女にジョンの結婚指輪を渡すと落ち着きを取り戻したと記憶している。ヨーコはショック状態のなか、ゲフィン・レコード の社長デヴィッド・ゲフィン(David Geffen)に付き添われてルーズヴェルト病院を後にした。

 

事件の余波

ジョンの殺害に対しては世界中で、それまでにないほどの規模で深い悲しみが噴出した。ジョンの遺体は1980年12月10日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡のハーツデールにあるファーンクリフ墓地で火葬され、葬儀は行われなかった。

ヨーコは、ダコタ・ハウスの外で祈りを捧げる群衆に、歌声により眠ることができないと訴え、彼らに翌日曜日にセントラル・パークにふたたび集まり、10分間黙祷するように依頼した。1980 年12月14日、ヨーコの呼びかけに応えた数百万の人々が世界中でジョンを追悼し、10分間の黙祷を捧げた。リヴァプールには3,000人が集まり、殺害現場のすぐ近くのニューヨークのセントラル・パークには、最大規模の225,000人以上が集まった。その10分間、ニューヨークのすべてのラジオ局は放送を中断した。また、少なくとも3人のビートルズ・ファンが後を追って自殺したため、ヨーコは、ジョンの死を悼む人々に対して、絶望に負けないよう広告を出して呼びかけた。またヨーコは1981年になって、ソロ・アルバム「シーズン・オブ・グラス」を発表した。アルバムのカバーにはジョンの血まみれの眼鏡の写真が使われた。同じ年には、シングル「Walking on Thin Ice」を発表した(ジョンは殺害の数時間前まで、レコード・プラント・スタジオでヨーコとこの楽曲のセッションを行っていた)。

チャップマンは、精神疾患の申し立てを行おうとした弁護士の助言に反し、ジョンの殺害について1981年に有罪の申し立てを行った。チャップマンは第2級謀殺(Second-degree murder)の罪で有罪となり、ニューヨーク州法において20年から終身までの無期刑を宣告され、20年後の2000年には、仮釈放の申請が可能になった。しかし、チャップマンは2019年、仮釈放申請が10回却下され、現在もウェンデ刑務所に服役中である。2020年、チャップマンは仮釈放申請の為の聴聞会で、ヨーコ・オノに対し謝罪の言葉を述べた。仮釈放は今回(11回目)も却下された。

 

John Winston Ono Lennon、1940年10月9日 – 1980年12月8日

 

 

 

1980年12月8日 ジョンレノン暗殺事件

 

 

IMAGINE. (Ultimate Mix, 2020) – John Lennon & The Plastic Ono Band (with the Flux Fiddlers) HD

 

 

 

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