1871年(明治4年)のこの日、「郵便規則」が制定された。同年3月1日から、東京・京都・大阪間で郵便業務が開始された。
それまでは飛脚便に頼っていたが、近代郵便制度の創設者である政治家・前島密(まえじま ひそか、1835~1919年)の建議により郵便制度が定められ、まず東京・京都・大阪に最初の郵便役所が創設され、営業が開始された。当時は東京と大阪間を3日と6時間かかって郵便を届けたという。
その後、郵便役所はさらに横浜・神戸・長崎・函館・新潟と全国展開が図られた。また、江戸時代に地域のまとめ役だった名主に自宅を郵便取扱所とする旨を要請。1873年(明治6年)に全国約1100ヵ所の名主が郵便取扱所を快諾したことから、郵便制度は全国に拡大した。
前島密はその功績から「郵便制度の父」と呼ばれ、1円切手の肖像でも知られる。また、東京郵便役所が置かれた現在の日本橋郵便局には「郵便発祥の地」の碑と前島密の胸像が設けられている。
日本の郵便の歴史
日本において通信制度が現れたのは、伝馬などを利用して公用通信に供した「大化の駅制」とされる。この駅制は盛衰を続け、鎌倉時代に至って飛脚の出現となり、戦国時代には大名の書状送付に飛脚が利用されるなどを経て、徳川時代(江戸時代)に幕府の整備により武家や町人が利用できる飛脚屋・飛脚問屋などの制度が発達した。その後明治時代に入り、飛脚は郵便に移行してゆく。
1858年の日米修好通商条約により、締結国が開港地に領事館を設置した。各国は公文書を蒸気船や軍艦に運搬させたが、自国民の手紙も便乗させた。いわゆる領事館郵便である。やがて中には業容を拡大し、独立の局舎を設けて専任の従業員を抱えたものもある。そのような在日外国郵便局を、英米仏三国が横浜・兵庫・長崎にもっていた。在日局は各国の郵便ルールに従っていた。切手販売、手紙引受、押印という基本的な機能は十分に果した。横浜の居留地ではサザーランド切手が使われた。
1870年(明治3年)5月、駅逓権正となった前島密は、太政官に郵便制度の創設を建議した。しかし、同年6月に前島が上野大蔵大丞に差添し渡英したことから、郵便制度創設の建議は、後任の駅逓権正・杉浦譲と各地の官吏に引き継がれた。
1871年(明治4年)1月24日に「書状ヲ出ス人ノ心得」及び「郵便賃銭切手高並代銭表」、「郵便規則表」等、郵便に関する一連の太政官布告が公布され、4月20日(旧暦3月1日)、東京 – 京都 – 大阪間に現行の制度の礎となる郵便制度が確立され、東京・京都・大阪に最初の郵便役所が創設された。布告に用いられた「郵便」の名称は、前島の案に準じたものであった。
前島密により建議され、創設された近代日本の郵便制度においては、これまで東京 – 京都 – 大阪間の政府の手紙等の配達に毎年1500両支出していたのを、政府の手紙配達に民間の手紙配達を併せて配達し利益を出すしくみが提案されていた。そのしくみは、東京 – 京都 – 大阪間62箇所の郵便役所・郵便取扱所で官吏が引き受け・管理を行い、配送時間は厳守された。郵便制度の創設後、従来の飛脚が東京 – 大阪間144時間で書状を配送していたものを、78時間に短縮した。
翌1872年(明治5年)8月に前島が英国より帰京すると、郵便役所はさらに横浜、神戸、長崎、函館、新潟と全国展開が図られ、江戸時代に地域のまとめ役だった名主に自宅を郵便取扱所とする旨を要請、1873年(明治6年)に全国約1100箇所の名主が郵便取扱所を快諾したことから、郵便制度は全国に拡大した。
駅逓寮は国際郵便の整備も並行させた。1872年、在日局にならい手続きを明文化した。内容だが、在日局に着いた書信のうち、横浜宛は在日局に配達を任せた。横浜以外は日本側が配達した。横浜から先の国内料金は受取人払いとし、徴収額は国内料金にそろえた。逆に海外宛の手紙は二重封筒を使った。国内料金と外国料金を足した額の日本切手を上封筒に貼って駅逓寮に送り、駅逓寮が下封筒に各国の切手を貼って在日局に託すというリレーが行われた。万国郵便連合がなかった時分、各国と条約を結ぶ必要があった。1873年にワシントンで締結された日米郵便交換条約は、それらで最初のものである。日米の郵便船はそれぞれ相手国の郵便物を無償で運ぶという条文があるものの、日本郵船の設立は1885年を待たなければならなかった。
竜文切手
竜文切手は日本最初の切手である。印刷は薄手の和紙で切手の目打も裏糊もなかった。またサイズが19.5mm四方の正方形であり、このサイズは日本で発行された切手の中で最も小さいものである。国名表記もなされていなかった。
この額面は通貨改革が行われていなかったため、江戸時代の通貨単位のままであった。なお48文という端数額面であるが、これは江戸期には100文以上の勘定を九六勘定とする慣習があり、100文の半額という意味であったという。九六勘定は100文以上について行われ、100文切手は96文、200文切手は192文、500文切手は480文で買えたが、48文切手については額面を50文とすれば丁銭勘定となり50文支払うことになり、これに対する措置と思われる。
また切手の額面は距離別及び重量別の料金体系に沿ったものであり、たとえば創業当日に東京から横浜に1匁までの書状を差し出すには48文であり、5匁の場合には10倍の500文が必要であった。