1800年(寛政12年)のこの日、伊能忠敬(いのう ただたか、1745~1818年)が蝦夷地の測量に出発した。
その後、16年にわたって測量をして歩き、本格的な日本全土の実測地図である『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。「輿地(よち)」とは大地や地球、全世界のことを意味する。この地図は、江戸幕府の事業として測量・作成が行われたもので、その中心となって製作した彼の名前から「伊能図(いのうず)」とも称される。
実際に地図が完成したのは伊能の死後、1821年(文政4年)のことである。縮尺36,000分の1の大図、216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲をカバーしている。この他に特別大図や特別小図、特別地域図などといった特殊な地図も存在する。すべて手書きの彩色地図である。
伊能は上総国(現:千葉県)出身の商人で、そこで造り酒屋を営み立派に繁盛させていたが、50歳の時に家督を長男に譲り、江戸へ出て測量・天文観測などを学んだ。その後、56歳の時に上記の測量を開始した。幕府からの資金援助はあまりなく、測量器具や旅の費用のほとんどを自費で賄い計測を行ったという。
大日本沿海輿地全図
種類・特徴
忠敬とその弟子たちによって作られた大日本沿海輿地全図は「伊能図」とも呼ばれている。縮尺36,000分の1の大図、216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲をカバーしている。このほかに特別大図や特別小図、特別地域図などといった特殊な地図も存在する。
伊能図は日本で初めての実測による日本地図である。しかし測量は主に海岸線と主要な街道に限られていたため、内陸部の記述は乏しい。測量していない箇所は空白となっているが、蝦夷地については間宮林蔵の測量結果を取り入れている。
地図には沿道の風景や山などが描かれ、絵画的に美しい地図になっている点も特徴の一つである。 最後は弟子たちによって完成された。
精度
忠敬は地図を作る際、地球を球形と考え、緯度1度の距離は28.2里とした。そしてこの前提のもと、測量結果から地図を描き、その後、経度の線を計算によって書き入れた。伊能図の経緯線はサンソン図法と同じである。
忠敬が求めた緯度1度の距離は、現在の値と比較して誤差がおよそ1,000分の1と、当時としては極めて正確であった。また、各地の緯度も天体観測により多数測定できた。そのため緯度に関してはわずかな誤差しか見られない。一方で経度については、天体観測による測定が十分にできなかったこと、地図投影法の研究が足りず各地域の地図を1枚にまとめるときに接合部が正しくつながらなかったこと、あとから書き加えた経線が地図と合っていなかったことなどの理由で、特に北海道と九州において大きな誤差が生じている。
その後の伊能図
忠敬死後、地図は幕府の紅葉山文庫に納められた。その後の文政11年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の蘭学者(高橋景保ら)などが処罰される事件が起こった(シーボルト事件)。シーボルトは内陸部の記述を正保日本図などで補っているため、実際の地形と異なる地形が描かれている。
江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本をもとにした日本地図が開国とともに日本に逆輸入されてしまったため、秘匿の意味がなくなってしまった。慶応年間に勝海舟が海防のために作成した地図は、逆輸入された伊能図をモデルとしている]。
伊能図は明治時代に入って、「輯製二十万分一図」を作成する際などに活用された。この地図は、のちに三角測量を使った地図に置き換えられるまで使われた。
伊能図の大図については、幕府に献上された正本は明治初期、1873年の皇居炎上で失われ、伊能家で保管されていた写しも関東大震災で焼失したとされる。しかし2001年、アメリカ議会図書館で写本207枚が発見された。その後も各地で発見が相次ぎ、現在では地図の全容がつかめるようになっている。2006年12月には、大図全214枚を収録した『伊能大図総覧』が刊行された。
伊能忠敬 “日本”を知らしめた男