長野県小諸市にある温泉宿・中棚荘(なかだなそう)が制定。中棚荘は、明治の文豪・島崎藤村ゆかりの宿でもある。
1936年(昭和11年)のこの日、漂泊の俳人・種田山頭火(たねだ さんとうか、1882~1940年)が中棚荘(当時は中棚鉱泉)に宿泊した。
その日の日記に「熱い湯に入れて酒が飲めるのがいい」と記載していることから記念日となった。敷地内には山頭火の句碑も建てられている。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
種田山頭火について
1882年(明治15年)、山頭火は、山口県佐波郡西佐波令村(現:防府市)にて大地主・種田家の長男として生まれた。しかし、父親が経営する種田酒造場の破産や身体と精神の不調など、数々の苦難の末、生涯を酒と放浪のうちに過ごした。
自由律俳句の代表として、同じ「層雲」の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある。
なお、「山頭火」とは納音(なっちん)の一つであるが、山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく「楊柳木」である。「山頭火」は、30種類の納音の中で字面と意味が気に入った物を選んだだけであると『層雲』の中で山頭火自身が書いている。また、「山頭」の定義には「火葬場」も含まれている。このことから、「山頭火=火葬場の火」と解釈できるという説もある。山頭火がこの意味を意識して名前を選んだ可能性について、山頭火の母親の死との関連性が指摘されている。
30歳の頃には、ツルゲーネフにかなり傾倒し、山頭火のペンネームでいくつかの翻訳をこなしている。金子兜太によれば、山頭火の父竹治郎はツルゲーネフの父、セルゲイ・ツルゲーネフに「なんとなく似ている」という。セルゲイは騎兵大佐で美男子で体格がよく、意志薄弱で好色で利に聡い上、結婚も財産目当てであった。竹治郎はセルゲイよりもお人好しではあったが、目の大きい寛容の相の人だったという。美男子で女癖が悪く、妾を幾人も囲い、政党との関係に巻き込まれてからは金使いも荒くなった。冷ややかで好色、意志薄弱という特徴はセルゲイと共通していた[4]。
山頭火は晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と記している。その時にはすでに無一文の乞食であったが、乞食に落ちぶれた後、克明な日記をつけ続けている。その放浪日記は1930年(昭和5年)以降が存在し、それ以前の分は自ら焼却している。死後、遺稿日記が公開され、生涯の一部が明らかになった。
俳句を愛した山頭火は、1940年(昭和15年)に愛媛県松山市で亡くなるまで、全国各地を歩いて旅をしながら数多くの俳句を作った。昭和の芭蕉とも呼ばれ、定型に縛られない自由律俳句の代表とされている。
山口県防府市内には山頭火の生家跡があり、JR防府駅てんじんぐち(北口)前には山頭火の銅像が建てられている。また、防府市内各所に山頭火の句碑が80基以上建てられていて、句碑めぐりを楽しむことができる。
代表句
- あるけばあるくほど日がしずむ
- あるけばかつこういそげばかつこう
- へうへうとして水を味ふ
- 一羽来て啼かない鳥である
- うしろすがたのしぐれてゆくか
- どうしようもない私が歩いている
- 生まれた家はあとかたもないほうたる
- 音はしぐれか
- ゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ
- 酔うてこほろぎと寝ていたよ
- 鴉啼いてわたしも一人
- 笠にとんぼをとまらせてあるく
- 笠も漏り出したか
- けふもいちにち風を歩いてきた
- この旅、果もない旅のつくつくぼうし
- こころすなほに御飯がふいた
- 鈴をふりふりお四国の土になるべく
- 霧島は霧にかくれて赤とんぼ
- また一枚脱ぎ捨てる旅から旅
- まつすぐな道でさみしい
- ふるさとはあの山なみの雪のかがやく
- すべつてころんで山がひつそり
- また見ることもない山が遠ざかる
- 松はみな枝垂れて南無観是音
- 分け入つても分け入つても青い山
- 鉄鉢の中へも霰
- 山へ空へ摩訶般若波羅密多心経
- 水音の絶えずして御仏とあり
- ほろほろほろびゆくわたくしの秋
- 生死の中の雪ふりしきる
- おちついて死ねそうな草萌ゆる
- 濁れる水の流れつつ澄む
種田山頭火
#01 町田康のパンク山頭火ラヂオ―山頭火とはどんな人物だったのか?