1866年5月13日、坂本龍馬とお龍の夫婦が、宮崎県と鹿児島県にまたがる霧島連山の主峰・高千穂峰に登頂しました。
旧暦慶応2年3月29日高千穂峰の山頂には、神々が日本列島を創り出した際に用いた鉾が逆さまに突き立てられていることで以前から知られており、私はお龍の前で、刺さっている鉾を抜いてみせましたと坂本龍馬自身が後日姉に宛てた手紙に記していることから、坂本龍馬とお龍の夫婦も実際に鉾を見たとされております。
ちなみに、当時高千穂の峰は女人禁制の山とされておりましたが、2人が霧島連峰を訪れたのは
- 寺田屋事件で負傷した坂本龍馬の慰安旅行の一環
- お龍は負傷した坂本龍馬の看病をしていた
- お龍が坂本龍馬を慕う気持ち
などから、お龍は男装をして坂本龍馬についていき、龍馬と登山案内人の制止を振り切り登ったとのエピソードも残っております。
加えて、この時の高千穂峰への登頂を含む2人の薩摩藩への慰安旅行が、
日本初の新婚旅行
だと捉えられております。
龍馬とお龍の出会い
お龍は京都七条新地の旅館「扇岩」で働き、母・貞は方広寺大仏殿近くの天誅組の残党を含めた土佐藩出身の尊攘派志士たちの隠れ家で賄いをするようになった。龍馬とお龍は元治元年(1864年)頃に出会っている。後年のお龍の回顧によると、龍馬と初めて会ったときに名前を聞かれて紙に書くと自分と一緒だと笑っていたという。お龍に惚れた龍馬は母・貞に、お龍を妻にしたいと申し入れ、貞も承知した。
同年6月の池田屋事件の際に、大仏でも会津藩の手入れがあって家財道具も没収されてしまった。(大仏騒動) 一家は困窮し、龍馬は「日々、食うや食わず、実に哀れな暮しであった」と述べている。これらお龍の境遇について、龍馬は姉・乙女に宛てた慶応元年9月9日付の手紙で詳しく書き送り、彼女を「まことにおもしろき女」と評している。お龍の後年の回想によると、同年8月1日に龍馬とお龍は内祝言を挙げた。
薩摩旅行
寺田屋遭難で龍馬は両手指に重傷を負い、西郷隆盛の勧めもあって、刀傷治療のために薩摩へ下ることになった。龍馬とお龍は3月4日に薩摩藩船「三国丸」で大坂を出帆した。船上で龍馬は「天下が鎮まったら汽船を造しらえて日本を巡ろうとか」と言い、お龍が「家などいりません。船があれば十分です。外国まで廻ってみたいです」と言い返すと、龍馬は「突飛な女だ」と笑い出した。後でこの話を聞いた西郷も「突飛な女だから君の命は助かった」と大笑いしたと後年、お龍は回想している。
船は10日に鹿児島に到着し、龍馬とお龍には薩摩藩士・吉井幸輔が同道して温泉療養に向かった。一行は日当山温泉、塩浸温泉に行き、犬飼滝を見物したり、山に入って拳銃で鳥を撃ったりして過ごした。また、霧島山の頂にある天の逆鉾を見るために高千穂峰を登ると、龍馬とお龍は同行していた田中吉兵衛が止めるのも聞かずに逆鉾を引き抜いてしまう悪戯までした。この薩摩旅行の様子を龍馬は慶応2年12月4日付の姉・乙女宛ての手紙で絵図入りで詳しく書き記している。また、明治になってお龍もこの旅行についての回顧談を残した。
龍馬を初めて世間に紹介した坂崎紫瀾の『汗血千里駒』では、この旅行を西洋人がする「ホネー、ムーン」(ハネムーン)と結び付けて説明しており、現在では日本最初の新婚旅行として知られている。
坂本龍馬とお龍