ヘレン・ケラー(Miss Helen Adams Keller)は1880年(明治13年)6月27日に米国南部・アラバマ州の小さな町タスカンビアにあるアイビー・グリーンと呼ばれる家で生まれました。父は南北戦争時に南軍の陸軍大尉だった、裕福な地主のアーサー・ケラーで、『ノース・アラバミアン』という新聞のオーナー編集長でした。妻ケイトとの間に生まれた最初の子供がヘレンでした。
恵まれた家庭で快活に育っていたヘレンが奇妙な高熱に見舞われたのは、1882年2月、生後19カ月の時。医師の懸命の治療で一命はとりとめたものの、次第に視力と聴力を失っていきました。猩紅熱の後遺症でヘレンの目と耳は永久に閉じてしまうのです。
1887年(7歳) ヘレンの両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、ベルの紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。
3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。サリヴァンは小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はすでに視力があった)、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンはあきらめかけていた「話すこと」ができるようになった。サリヴァンはその後約50年に渡りよき教師、そしてよき友人としてヘレンを支えていくことになる。
1887年3月3日、アニーがアラバマ州タスカンビアに列車から恐る恐る降り立った時、教育の歴史、いや人間精神の歴史における新しい一章が始まったのです。家庭教師アニー・サリバンのヘレンに対する厳格で献身的な教育は、ウィリアム・ギブソンの戯曲やそれを映画化した『奇跡の人』でご存じの通りです。そして、ヘレンは天賦の才を開花させ、米国の女子教育の名門であるラドクリフ大学に入学します。
ラドクリフ大学はマサチューセッツ州ケンブリッジにある私立の女子大で、1879年ハーバード大学の教員たちが設立しました。現在はラドクリフ・キャンパスとして、完全にハーバード大学の中に組み込まれていますが、当時は教員やカリキュラムは共有するものの、組織上は学生数約2400人の独立した大学でした。キャンパスには米国の女性史に関する資料を集めたシュレージンガー図書館があり、ヘレン・ケラー女史に関する資料も多数収蔵しています。また、女史を記念した小公園もあります。
ヘレンは、1904年ラドクリフ大学を優秀な成績で卒業後ほどなく自分に与えられた使命が障害者の救済にあることを自覚し、著述と講演を精力的に行うようになります。そして1964(昭和39)年9月14日には、ジョンソン大統領から、米国で最大の名誉である「自由勲章」を授与されました。
ヘレン・ケラーの来日
ヘレン・ケラーは、日本には1937(昭和12)年、1948(同23)年と1955(同30)年の3回来訪しています。とくに1948年の際は、敗戦で打ちひしがれた日本国民の熱狂的歓迎を受け、全国各地で講演して回り、これが2年後の身体障害者福祉法制定となって実り、東京ヘレン・ケラー協会もそのとき集まった募金を基に創設され、女史は協会の名誉総裁を引き受けました。1955年の来日の際は、ヘレン・ケラー学院の講堂で講演し、成果を見届けています。
1968年(昭和43年)6月1日、88歳の誕生日(6月27日)を目前に逝去し、亡骸は首都ワシントンのワシントン大聖堂の地下に安置されています。そこには点字が刻印されたプレートがあり、女史が永眠していることを示しています。