1942年(昭和17年)のこの日、ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクによって『アンネの日記』が書き始められた。
アンネの家族は、ナチス・ドイツのユダヤ人狩りを逃れて、オランダ・アムステルダムの隠れ家に8人で身を隠した。日記は隠れ家に入る少し前の、この日6月12日の13歳の誕生日に父から贈られたものだった。日記は1942年6月12日から1944年8月1日までの約2年間が記録されている。
1944年8月4日、アンネら8人は密告によりドイツ秘密警察に捕まり、隠れ家から連れ出され、ポーランドのアウシュビッツに送られた。そして、アンネは1945年3月にドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所で15歳の若さで発疹チフスにより死亡したとされている。
逮捕された8人の中で戦後を迎えることができたのは、父のオットー・フランクのみであった。アンネの死後、父オットーの尽力によって日記は出版された。この日記は60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える世界的ベストセラーになった。
アンネの生涯
ドイツ国のフランクフルト・アム・マインに生まれたが、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、一家で故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命した。しかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日に一家は、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜行生活に入ることを余儀なくされた(フランク一家の他にヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入り、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らした)。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家でのことを日記に書き続けた。
1944年8月4日にナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所へと移送された。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。1945年3月上旬ごろのことと見られている。
隠れ家には、アンネがオランダ語でつけていた日記が残されていた。オットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットー・フランクはミープからこの日記を手渡された。オットーは娘・アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。この日記は60以上の言語に翻訳され、2,500万部を超える世界的ベストセラーになった。
日記の成立
1944年8月4日の午前10時から10時半頃、隠れ家に潜んでいた8人のユダヤ人は、何者かからの密告を受けて出動したアムステルダム駐留の保安警察(SD)の職員たち(カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長と数名のオランダ人ナチ党員)によって逮捕された。彼らを匿っていたヴィクトール・クーフレルとヨハンネス・クレイマンの2人も連行された。しかし女性だったミープ・ヒースとベップ・フォスキュイルは逮捕を免れた。
逮捕されたユダヤ人8人の中で戦後を迎えることができたのは、オットー・フランクのみである。アンネを始めとした他のユダヤ人7名はそれぞれの移送先の強制収容所で死亡する。
保安警察が去ると、ミープ・ヒースとベップ・フォスキュイルは床の上に散乱した文書をすぐに回収した。それらのテキストは、戦後アムステルダムに戻ったオットーに渡された。彼はこの文書を編集してまとめ、アンネやフランク一家をよく知る人のために私家版として配った。やがてこの文書の存在は広く社会に知られるようになり、周囲の声に推され、本格的な出版に踏み切ることになる。初版は1947年にオランダのコンタクト社から発売された。
アンネは隠れ家のことを、その形から『ヘット・アハターハウス(オランダ語: Het Achterhuis=直訳すると「後ろの家」)』と名づけていたが、これはオランダ語版の『日記』のタイトルとなった。
【10分で見る!】アンネフランク|悲劇の少女の物語