1858年6月17日(旧暦:安政5年5月7日)、現・東京上野に天然痘の予防及び治療を目的に設立された医療機関となるお玉ヶ池種痘所が設立されました。
種痘(天然痘の予防接種のこと)江戸中期頃まで、天然痘は罹ったが最期、不治の病とされておりました。が、天然痘に罹った牛の皮膚などを、敢えて自身の体内に取り込むことで免疫を作り対処する治療法が見事成功し、治癒が可能な病となっております。
以後、全国各地に天然痘の治療を目的とした種痘所が数多く設けれておりますが、中でも総人口が多く、天然痘感染者も多かった江戸に建てられたお玉ヶ池種痘所には、
- 伊東玄朴
- 杉田玄瑞
- 戸塚静海
- 林洞海
- 手塚良仙
- 三宅艮斎
ら、当時を代表する蘭学者たち総勢83名の資金拠出により設立され、天然痘の治療に大きな貢献を果たしました。
ちなみに、天然痘の治療方法が見つかる以前は、天然痘の疱瘡神は犬や猿など赤色のものが苦手と考えられていた傾向があり、
- 赤い犬、猿のお面
:山間部に多め - 赤ベコ
:福島・会津地方 - さるぼぼ
:岐阜・飛騨地方
などの当時お守りとして備えられていたものが今日でも残っております。
お玉ヶ池種痘所
嘉永2年(1849年)3月に、既得権益を守りたい漢方医らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れた。しかし江戸では急速な開化ムードもあり、安政5年(1858年)に蘭方解禁となった。また、伊東玄朴・戸塚静海らの蘭方医が奥医師(幕府の医官)に登用されたことを契機とし、安政4年8月に大槻俊斎の家に伊東や戸塚ら蘭方医10人および斎藤源蔵が集まり、会議が開かれた。箕作阮甫はプチャ―チン事件などでも知り合いであった、幕閣の開明派であった川路聖謨に働きかけ、川路を通して幕閣に働きかけ、また種痘所の計画用地として川路の神田於玉ヶ池の屋敷の一角を借りることとした。
安政5年正月、老中堀田正睦から許可が下り、伊東・戸塚・箕作・林洞海・石井宗謙・大槻俊斎・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名の資金拠出により、同年5月7日、神田松枝町(現・東京都千代田区神田岩本町2丁目)の川路聖謨の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立された。この種痘所は11月に火災で類焼するが、伊東玄朴宅と大槻俊斎宅を仮所として種痘は継続され、翌年9月に別な場所に再建された。この再建の際、三宅艮斎の依頼を受けた濱口梧陵が建築資金として3百両、機材代として四百両という大金を寄贈している。こののち幕府直轄とされ「西洋医学所」(東京大学医学部の前身)と改名し、種痘は同施設の一部門となる。医学所初代頭取は大槻俊斎。大槻の死後、伊東玄朴らが緒方洪庵を推薦し、幕府の強い要請に応えて、緒方が大阪から上京して頭取に就任。文久3年2月に医学所と改称。同年6月の緒方の死後、7月から松本良順が頭取となった。慶応4年、新政府軍の江戸開城および幕府が機能停止する。頭取の松本良順が旧幕府軍と共に奥州に去ったため、林洞海が頭取となって種痘は続けられた。