1942年6月18日にジェームズ・ポール・マッカートニー(James Paul McCartney)がイギリスのリバプールにて誕生。
ジェームズ・ポール・マッカートニー(英語: Sir James Paul McCartney、1942年6月18日 – )はイギリスのミュージシャン、シンガーソングライター。マルチプレイヤー。『ギネス世界記録』に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として掲載。1960年代にはロックバンドのビートルズのメンバーとしてジョン・レノンと共に多くの楽曲を作詞作曲してヴォーカルと演奏を担当。ビートルズ解散後はウイングス(ポール・マッカートニー&ウイングス)のメンバーまたはソロ・ミュージシャン名義で活動。左利き。ベジタリアン。デビューから半世紀以上が過ぎた現在も第一線で活躍を続けている。制作した楽曲は2019年までで500曲以上。
ファーストネームはジェイムズだが、父のファーストネームも同じジェイムズである為、ミドルネームであるポールを主に用いている。弟はマイク・マクギア(マイク・マッカートニー)で、ミュージシャンである。
「イエスタデイ」「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」など、ビートルズの代表作とされる楽曲を数多く作詞・作曲している。解散後の1970年代にはウイングスのリーダーとして「ジェット」「愛しのヘレン」「ハイ・ハイ・ハイ」「ジュニアズ・ファーム」「メアリーの子羊」「アイルランドに平和を」などの優れた楽曲を発表した。1980年代以降はソロとして活動し、全米チャート第1位に9曲、トップ20に20曲以上がランクインしている。2000年代以降も作品を発表し続け、近年ではクラシック音楽も手がけている。
ビートルズ時代から現在に至るまで、バンドでは主にベース(レコーディングではギターやキーボードも)を演奏しているが、近年はコンサートでもギターを演奏しギタリストとしての一面を見せる事も増えている。彼のメロディアスなベースラインは評価が高く、後のロックバンドにも多大な影響を与えたと言われる。他にもシンセサイザー、キーボード、ドラムス、ウクレレ、フラットマンドリン、またトランペットやサックスなどといった管楽器をも扱うマルチプレイヤーである。「タックスマン」「涙の乗車券」などビートルズ時代のいくつかの曲でリードギターを担当し、また「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」「ディア・プルーデンス」「ジョンとヨーコのバラード」などでドラムスを叩いている。ソロ・アルバム『マッカートニー』や『裏庭の混沌と創造』では全ての楽器を一人で演奏(マルチレコーディング)している。
作曲技法ではクラシック音楽、ベースではモータウンのジェームス・ジェマーソン、ボーカル・スタイルでは「リトル・リチャード」の影響が強い。ロック・ナンバーを歌いこなすほか、バラードにおける甘い歌声や、唸りを効かせた歌唱法など、多彩なボーカルを聴かせる。ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、コーラスの一人多重録音も盛んに行っている。信条は環境保護、動物愛護、平和主義、差別反対。
幼少期〜青年期
1942年6月18日(木)にリヴァプールで誕生する。労働者階級出身。父はセールスマンや工場勤務で働く一方、”アマチュアのジャズ・ミュージシャン”で腕はセミプロ級でもあった。母方の祖父はアイルランド系で、父方の曽祖父もやはりアイルランド系だった。ビートルズはポール、ジョン、ジョージ、リンゴ4人全員にアイルランド人の血が入っている。スコットランド人の血も入っている。
1956年に母のメアリー(1909~56)が乳癌で死去。この年、処女作「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」を作曲する。同曲は後に1991年発売のライブ・アルバム『公式海賊盤』に収録される。ポールとジョンはいずれも母が亡くなっており、この点でもお互い共感するものがあったと言われている。
リヴァプール・インスティチュート在学中の1957年7月6日、共通の友人の紹介でジョン・レノンと出会う。10月18日にビートルズの前身となるジョンのバンド、ザ・クオリーメンに加入する。真面目に勉学に取り組んでいたポールだったが、ハイスクール時代さらに音楽にのめり込み、成績が下降していった。
ビートルズ時代
西ドイツのハンブルクなどのクラブでの演奏で多数のライブを経験する。歓楽街のハンブルグではアルコール、ロックンロール、女性、ドラッグなどを嗜む日々だった。スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストの脱退など何度かのメンバーチェンジを経た後、ジョン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターとの4人で1962年、ビートルズとしてパーロフォンよりシングル『ラヴ・ミー・ドゥ』でレコードデビューする。
1966年6月にビートルズとして訪日し、熱狂的に迎えられて日本武道館にて公演を行った。公演が実施される前には正力松太郎の「ベートルスとかペートルスとかいう連中」発言や、細川隆元、小汀利得や街宣車などの反対があったが、コンサートは無事に開かれた。このコンサート以来、日本武道館は「日本音楽界の聖地」とも呼ばれる場合もある。
恋人の写真家リンダ・イーストマンが妊娠したため、1969年3月12日に結婚する。以降、リンダはポールを公私共に支え続けたが、1998年に癌のため56歳で死去した。娘のステラ・マッカートニーは、ファッション・デザイナーになっている。
This is The Beatles
This is: Paul McCartney