この日は『星の王子さま』で知られるフランスの作家で飛行士のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1900~1944)の誕生日。フランス・リヨンで生まれた。
また、1999年(平成11年)のこの日、神奈川県箱根町に世界で最初の記念館「箱根サン=テグジュペリ 星の王子さまミュージアム」がオープンした。このオープン記念として記念日が設けられた。
星の王子さま
『星の王子さま』(ほしのおうじさま、フランス語原題:Le Petit Prince、英語: The Little Prince)は、フランス人の飛行士・小説家であるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説である。彼の代表作であり、1943年にアメリカで出版された。
2015年現在、初版以来、200以上の国と地域の言葉に翻訳される。
「大切なものは、目に見えない (Le plus important est invisible)」を初めとした本作の言葉は、生命・愛とは何かといった、人生の重要な問題に答える指針として広く知られている。この作品の元になったと思われる、1935年のリビア砂漠での飛行機墜落事故の体験は、サン=テグジュペリによる随筆集『人間の土地』で語られている。
レイナル・ヒッチコック社)による1943年の初版以来、作者自身による挿絵が使われ、素朴な主人公や脇役の姿は作品とともに愛されている。
物語の前置きでは、この本を、フランスに住んでいて困難に陥っているあるおとなの人に捧げると述べられている。この献辞にある「おとなの人」「子どもだったころのレオン・ヴェルト」とは、作者の友人のジャーナリスト、レオン・ヴェルト)を指している。当時は第二次世界大戦中で、ヴェルトは平和主義者で、ナチス・ドイツの弾圧対象となっていたユダヤ人であった。
映画監督のオーソン・ウェルズも実写とアニメーションの融合による映画化を考えていたことがあり、アニメーション部分はディズニー・プロに依頼していたようであるが、実現はしなかった。
慶應義塾大学の片木智年(当時助教授)の2006年の時点での解説によると、日本における「星の王子さまブーム」は(2006年までに)3回あったという。1回目は研究者らによる謎解き本が多数出版された1980年代、2回目はサン=テグジュペリ生誕100周年の2000年前後、3回目は数社から新訳が出版された2006年前後で十数社で刊行された。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry、1900年6月29日 – 1944年7月31日)は、フランスの作家、操縦士。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からはSaint-Exupéryを略したSaint-Exから「サンテックス」の愛称で親しまれる。
リヨンの伯爵の子として生まれる。イエズス会のノートルダム・ド・サント・クロワ学院を経て、スイスのフリブールにある聖ヨハネ学院では文学にいそしむ。
兵役(志願)で陸軍飛行連隊に所属し、異例の経歴で軍の操縦士(士官)となる。退役後(士官であったため、陸軍予備役少尉となる)は自動車販売員などに就業した後、民間航空界に入る。
1926年、26歳で作家として本格的にデビューし、寡作ながら以後、自分のパイロットとしての体験に基づいた作品を発表。著作は世界中で読まれ、有名パイロットの仲間入りをしたが、仲間のパイロットの間では反感も強かったという。後に敵となるドイツ空軍にも信奉者はおり、サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくないと語った兵士もいたという。
1935年、フランス-ベトナム間最短時間飛行記録に挑戦するも機体トラブルでサハラ砂漠に不時着、一時は絶望視されるも3日後に徒歩でカイロに生還した(この体験が後の『星の王子さま』に反映されている)。
1939年9月4日、第二次世界大戦で召集され、トゥールーズで飛行教官を務めた。前線への転属を希望したサン=テグジュペリは、伝手を頼り、周囲の反対を押し切る形で転属を実現させる。戦闘隊や爆撃隊は希望せず、1939年11月9日、オルコントに駐屯する偵察隊(II/33部隊)に配属された。部隊は多大の損害を受けアルジェリアへ後退したが、ヴィシー政権がドイツと講和。動員解除でフランス本土へ戻った後、アメリカへ亡命。1940年12月21日リスボン出航。12月31日ニューヨーク着。
亡命先のニューヨークから、自由フランス空軍(自由フランス軍の航空部隊)へ志願、再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ赴き、1943年6月に原隊であるII/33部隊(偵察飛行隊)に着任する。新鋭機に対する訓練期間を経て実戦配置されたが、その直後に着陸失敗による機体破損事故を起こし、1943年8月に飛行禁止処分(事実上の除隊処分)を受けてしまう。必死の尽力により復帰を果たすと、爆撃機副操縦士としての着任命令(I/22部隊)を無視し、1944年5月、サルデーニャ島アルゲーロ基地に進出していたII/33部隊に戻った。部隊は後にコルシカ島に進出。7月31日、フランス内陸部グルノーブル、シャンベリー、アヌシーの写真偵察のため、ロッキードF-5A(P-38の偵察型)を駆ってボルゴ飛行場(戦後、民間移管されバスティア・ポレッタ国際空港)から単機で出撃後帰還せず、消息不明となる。
作品
デビュー作『南方郵便機』(1929年)は、男女間の恋愛を描いた唯一の作品である。構成技法その他の理由から、あまり高い評価はなされていない。
『夜間飛行』(1931年)と『人間の土地』(1939年)は、ベストセラーとなり代表作として高い評価を受けた。現在でも世界中で広く愛読されている。アルベール・カミュの『ペスト』などとならび、伝統あるフランス植民地文学の香気を伝えるものとしても名高い。
『戦う操縦士』(1942年)は、書かれた時代背景がその存在意義と評価を決めた。ヒトラー『我が闘争』に対する「民主主義の側からする返答」として高く評価され、アメリカで先行出版された英訳版『アラスへの飛行』(1942年)はベストセラーとなった。占領下のフランスでも制限付き(初版発行部数2000部余り)で発刊されたが、直ぐに発禁図書となり、地下出版物(リヨン版)として反ナチ派の間で読み継がれた。
『星の王子さま』は、自身で描いた素朴な挿絵も含め世界各国で長く愛読された作品だが、1943年4月にニューヨークの「レイナル&ヒッチコック社」から英訳版(『The Little Prince』)とフランス語原文版(『Le Petit Prince』)が、フランス本国では没後の1945年11月に、「ガリマール社」から出版された。ただし出版社自身は、実際に発売されたのは1946年になってからだと主張している。初刊は誤植が多く、挿絵も原画から忠実とは言えなかったが、1999年になりガリマールは誤りを認め、誤植や挿絵を修正した版を出版した。
この挿絵は、彼の肖像画と共にユーロ導入前の50フラン紙幣にも描かれた。
映画『紅の豚』で、1920年代の飛行艇乗りを描いた宮崎駿は、サン=テグジュペリの長年の愛読者である。
【朗読】星の王子さま 前編