1986(昭和61)年6月7日、広島東洋カープの衣笠祥雄選手が、vs阪神タイガース戦で日本プロ野球史上初となる2,000試合連続出場の大記録を達成しました。
この偉業は、17年間休まなかった男としても脚光を浴びた他、当時はスポーツ医学に関する知識が充分ではなく、精神論が先行する時代での記録達成に、
- 怪我を克服する強さ
- 野球選手としての身体造り
- プロ選手としての在り方
など、その多くが賞賛されました。
その後連続出場記録は2,215試合まで伸び、同氏の功績は『鉄人』の愛称と共に讃えられております。
また、2,215試合連続出場記録を打ち立てた功績から国民栄誉賞を受賞しており、衣笠氏のつけていた背番号「3」は、広島カープの永久欠番に指定されております。
現役時代は「当てる」バッティングを全くせず、常にフルスイングで打席に臨んでいた。そのため本塁打や打点が多い反面、三振や凡打も多く、これほどの通算成績を残しているにも関わらず、シーズンを通して打率が3割以上はたった1度(1984年)しかない。通算三振数は1587個(当時日本記録)、通算併殺打は267(セ・リーグ記録)に上る。ただし、現在の三振数歴代1位(1955個)の清原和博が実働22年で100三振以上のシーズンが9回あったのに対し、衣笠は1回もなく(最多は80、82、83年の89個)、三振数がリーグ最多となったのも70年(81個)の1回しかない(清原は3回)。
シーズン打率3割到達経験なしの通算2000本安打達成者は柴田勲、田中幸雄の2名のみだが、2000本安打達成時点であれば衣笠も含まれる。唯一の3割到達シーズン(1984年)が2000本安打達成後のためである。また、打点王と盗塁王のタイトル獲得経験がある数少ない選手である(他の該当者は飯田徳治とイチローの2人のみ)。
その一方で球史に残る強打者でありながら通算犠打(ここでは狭義の犠打…犠牲バントのこと)数は88と、本塁打を500本以上を記録した打者の中でも突出して多い。衣笠がチームプレイに徹していた証左でもある。
通算被死球161は日本プロ野球史上3位だが、振る舞いは非常に紳士的であった。どんなに危険で痛い死球を受けても、怒るどころか左手で「いいよ、大丈夫だから」と逆に相手投手を気遣いながら一塁へ向かっていた。1979年8月1日の対巨人戦で西本聖から死球を受け乱闘騒ぎになった際、西本が衣笠の元へ謝りに近寄っていったところ「危ないからベンチに下がっていろ」と言われ、西本は衣笠の器の大きさを感じたと語っている。大島康徳は「ただ一人だけ、僕がそういうとき(死球や危ない球が来たとき)の対応で、すごいな、カッコいいなと思ったのが広島の衣笠祥雄さんです。あの人は危ない球だろうが、当てられようが、ほとんど顔色を変えず、当たったときもその個所を手でサッとはらい、タタタッと一塁に向かった。ダンディでしたね。もちろん、衣笠さんは避け方もうまかった。逃げるのが下手な選手なら、あんなに当てられているうちに何度も大ケガをしてますよ。」と述べている。
連続試合出場の世界記録を更新した時、「いつか、誰かにこの記録を破ってほしい。この記録の偉大さが本当にわかるのは、その人だけだろうから」という言葉を残した。衣笠の記録はアメリカでも非常に高く評価されており、現在でも「キヌガサ」は、アメリカで最も名前の知られている日本人野球選手の一人である。1996年6月14日にカル・リプケン・ジュニア(オリオールズ)が記録を更新した試合にも、来賓としてアメリカに招かれた。また、人間国宝の藤原雄と親しく、上記の試合のとき藤原が作った備前焼をリプケンに手渡している。本人は自分の記録を抜いてくれたことを非常に喜んでいたといい、後々リプケンとは親友にもなった。
鉄人よ永遠に