1962年(昭和37年)の8月12日、海洋冒険家の堀江謙一が小型ヨット「マーメイド号」で日本人初の太平洋単独横断に成功し、サンフランシスコに到着した。
堀江氏は当時23歳で、兵庫県西宮市を出港し、94日間・1万キロという長い航海を経ての成功であった。当時はヨットによる出国が認められなかったため、「密出国」という形であり、日本の行政当局からは「人命軽視の暴挙」と非難された。一方、アメリカ現地では大きな称賛を浴びた。帰国後に出版された著書『太平洋ひとりぼっち』はベストセラーとなり、1963年(昭和38年)には主演・石原裕次郎で映画化もされた。
小型ヨット単独無寄港太平洋横断航海
1962年5月12日、23歳のときに小型ヨット『マーメイド号』(全長5.83m、水線長5.03m、幅2.00m、船体は合板(ラワン)製)で、単独無寄港太平洋横断を目指して、兵庫県西宮を出港、同年8月12日、アメリカのサンフランシスコに入港し、成功した。航海日数は94日。なお、小型ヨットによる単独無寄港太平洋横断は世界初であった。
水20リットル、米40kg、缶詰200個を積んで出航した。水は20リットルでは足りず、航海中に甲板に降った雨水を蓄えるなどした。
当時はヨットによる出国が認められなかったため、「密出国」という形になった。8月10日に家族から捜索願が出されたことを受け、大阪海上保安監部は“自殺行為”とみて全国の海上保安本部へ“消息不明船手配”を打電し、不法出国問題より、救助を先決にしていた。
堀江がサンフランシスコに到着したとの連絡を受けた大阪海上保安監部救難係は、「アメリカからは直ぐ不法出入国者として強制送還され、日本に着くと直ぐ捕まえられることになる」と話し、また、同監部警救課長は「こんな真似をされては困る。ヨット同好者などが、このような“冒険”を称賛するようなことがあればとんでもない間違いで、海の恐ろしさを知らぬ“人命軽視”だ」と非難した。なお、大阪入管事務所は「小型ヨットは一般旅客とみなされるので当然ビザが必要になる。たとえ申請があっても許可しないのは常識」と話した。
しかし、サンフランシスコ市長ジョージ・クリストファーが「コロンブスもパスポートは省略した」と、尊敬の念をもって名誉市民として受け入れ、1か月間の米国滞在を認めるというニュースが日本国内に報じられたところ、日本国内のマスコミ及び国民の論調も手のひらを返すように、堀江の“偉業”を称えるものに変化した。その後、帰国した堀江は密出国について当局の事情聴取を受けたが、結果、起訴猶予となった。
『マーメイド号』は、横山晃設計によるキングフィッシャー型19フィートのスループで、姫路市の奥村ボート(現・オクムラボート)にて建造された。船名は、資金不足に悩んでいた際、敷島紡績(現 : シキボウ)からの、同社商標の「マーメイド(人魚)」マークを入れてくれれば、帆を一式寄付するとの申し出を受け入れたことに因んでいる(秘密裏の計画だった太平洋横断航海のスポンサーではない。)。
同艇は、現在、サンフランシスコの米国立海洋博物館で保存・公開されている。
1963年2月20日、第11回菊池寛賞の授賞が決定された。授賞理由は、「単身ヨットを駆って世界最初の太平洋を横断した快挙」に対してである。
太平洋ひとりぼっち