1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌15日の正午に昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが国民に伝えられ、第二次世界大戦が終結した。
玉音放送は国民が初めて聞く昭和天皇の肉声であった。内務省の発表によれば、戦死者は約212万人、空襲による死者は約24万人だった。1963年(昭和38年)から毎年、政府主催による「全国戦没者追悼式」が行われ、正午から1分間、黙祷が捧げられる。この追悼式は第二次世界大戦の日本人戦没者に対して宗教的に中立な形で行われる。1982年(昭和57年)4月の閣議決定により「戦没者を追悼し平和を祈念する日」となった。
全国戦没者追悼式について
「全国戦没者追悼式」(Memorial Ceremony for the War Dead)が最初に実施されたのは1952年(昭和27年)5月2日のことである。第2回は1959年(昭和34年)3月28日にやや変則的に実施され、その後1963年(昭和38年)に日比谷公会堂で8月15日に、1964年(昭和39年)には靖国神社で8月15日に開催。翌1965年(昭和40年)から日本武道館にて8月15日に行われるようになり、現在に至っている。
追悼の対象は「第二次世界大戦で戦死した旧日本軍軍人・軍属約230万人」と、「空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約80万人」の、「日本人戦没者計約310万人」である。この戦没者数は現在において一般によく引用される半ば公式の数字である。式場正面には「全国戦没者之霊」と書かれた白木の柱が置かれる。
終戦への歴史的流れ
1945年7月26日、米英中の3か国(のちにソ連も参加)はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求した。
日本政府は、日ソ中立条約があるソ連に和平講和の仲介を託していたが、8月6日広島市に原子爆弾が投下され、8月8日ソ連対日宣戦布告、8月9日広島市に続き長崎市にも原子爆弾が投下されるという重大な事態が続いた。
8月10日、日本政府はポツダム宣言の受諾を外交公電として連合国に向けて通告した(午前6時45分)。同日8時過ぎに外務省からの指示で同盟通信社のモールス通信と日本放送協会(NHK)の海外ラジオ放送(いずれも短波)で通告文書が放送された。国内での短波受信は禁止されていたので大半の日本人より早く短波受信機が普及されていた連合国側(だけではないが)の国民にはポツダム宣言受諾が知らされた。同時に日本政府は中立国を通じて、「国体の変更(=皇室維持の是非)を伴わないかどうか」を連合国側に確認した。しかし、確答が得られぬまま、8月14日の御前会議で、昭和天皇の聖断によりポツダム宣言受諾が正式に決定され、終戦の詔勅が発せられ、連合国に対しポツダム宣言の受諾を通告した。
1945年8月15日正午(グリニッジ標準時午前3時)から、前日に公布された「大東亜戦争終結ノ詔書」(終戦の詔書などともいう)を昭和天皇が朗読したレコードがラジオ放送され(いわゆる玉音放送)、国民及び陸海軍に「ポツダム宣言の受諾」と「軍の降伏の決定」が伝えられた。当日は朝から「畏き辺り(かしこきあたり=天皇)にあっては本日正午から重大発表を行なうので、全国民は謹んで必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされた。大日本帝国憲法下において神聖不可侵とされた最高権力者である天皇の肉声が初めてラジオで放送されたことと共に、「戦争終結を発表された」と、このラジオ放送は国民にとって「敗戦の象徴」とも云うべき出来事であり、大きな衝撃を与えた。
1945年8月15日、大本営は大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、8月16日に自衛の為の戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した[6]。さらに8月18日には、全面的な戦闘行動の停止は、別に指定する日時以降に行うように命令、8月19日に、第一総軍、第二総軍、航空総軍に対して、8月22日零時以降、全面的に戦闘行動を停止するように命令した。支那派遣軍を除く南方軍等の外地軍に対しては、8月22日に、8月25日零時以降に全面的な戦闘行動停止を命令した。中国大陸や北方戦線では、ソビエト連邦や中華民国との戦闘が暫く続いた。ソ連軍は北方四島に上陸作戦を展開し、それを阻止するための戦闘が、中央の命令により現地陸軍守備隊によって行われた(占守島の戦い等)。また戦闘停止命令の行き届かなかった部隊などによる連合国軍との小規模な戦闘は続いた。さらに、外地の一般市民が難民と化し多数の犠牲者を出した。また、沖縄県の久米島では現地の海軍部隊による住民の虐殺事件も起きている(久米島守備隊住民虐殺事件)。これらの戦闘は8月下旬になると概ね終結した。
1945年9月2日、昭和天皇は「誓約履行の詔書」を発し、日本政府全権の重光葵外務大臣(東久邇宮内閣)と大本営(陸海軍)全権の梅津美治郎参謀総長が、降伏文書に調印し、即日発効した。1951年9月8日には、平和条約であるサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)が調印された。そして、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日をもって、国際法上、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結することとなった。
昭和天皇の玉音放送
【昭和20年】玉音放送の謎【8月15日】