1839(天保10)年8月19日、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール氏が発明した銀板写真技法
ダゲレオタイプ
がフランス科学アカデミー学会に発表されたことにちなんで制定された国際的な記念日。
国際表記 :World Photographic Day
「ダゲレオタイプ」は、それまで写真の撮影に10~20分ほどかかった露光時間を、1~2分にまで抑えることに成功した技法で、感光材料として銀メッキの銅板などを使うため、日本では「ダゲレオタイプ」の呼称よりも
銀板写真
と呼ばれておりました。また、後日フランス政府が銀板写真の発明に基づく特許を買い上げ、誰でも無償で自由にダゲレオタイプを使用できる政府通達を発令
したこともあり、瞬く間に人気を集め一気に世界中へ普及していくこととなりました。
ダゲレオタイプ
ダゲレオタイプ(仏: daguerréotype)とは、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールにより発明され、1839年8月19日にフランス学士院で発表された世界初の実用的写真撮影法であり、湿板写真技法が確立するまでの間、最も普及した写真技法。銀メッキをした銅板などを感光材料として使うため、日本語では銀板写真とも呼ばれる。転じて、その技法を採用した世界最初の写真用カメラ「ジルー・ダゲレオタイプ」もダゲレオタイプと呼ばれる。
ダゲールは、フランス初のパノラマ画家であるピエール・プレボに弟子入りし、建築、劇場の設計、およびパノラマ絵画を学んだ。彼は劇場にイリュージョンを作り出す技術に長け、演劇の有名デザイナーとして活躍した後、1822年7月パリに自分が発明したジオラマ劇場を開設した。
1829年、先に写真術の研究を開始していた発明家ニセフォール・ニエプスと共同し、その改良方法の研究を始めた。ニエプスは1826年に最初の写真術であるヘリオグラフィーを発明し、世界最初の写真を残しているが、その露光時間は8時間程度を要するもので、到底一般的な実用に耐える技術ではなかった。
ダゲールはニエプスの死後も研究を続け、1839年に銀板写真法を発表した。このカメラは発明者の名前をとってダゲレオタイプと呼ばれ、露光時間を10-20分から最終的には1-2分にまで抑えることに成功し、肖像写真の撮影も容易なものとなった。
ダゲールによるダゲレオタイプは、一般の人々でも制作可能な設備・装置、現実的範囲の撮影所要時間と、撮影した映像の定着保存技術をすべて実現させたことで、実用的な写真法の端緒となった。ダゲールは当時のフランスを代表する科学者フランソワ・アラゴに新たな写真技術への推薦を求めたところ、アラゴはその有益なことを認めてこれをフランス政府に推挙した。フランス政府は公益のため、ダゲールへ補償として終身年金を支給することで、写真技術を一般に公開した。その結果、銀板写真法は19世紀中期、世界中で急速に普及することになった。1851年7月10日、ダゲールはパリから12km離れたシュールマルヌで死亡し、彼の墓もそこに建てられた。ダゲールの名前は、72名のうちの一つとしてエッフェル塔に刻まれている。
ダゲレオタイプの主な特徴
ダゲレオタイプの最も大きな特徴は、ポジティブ画像をダイレクトに得る写真技術であるという点である。ダゲレオタイプ以降に登場した写真技術では、基本的に明暗の反転したネガティブ画像を得て、そこから明暗の反転しないポジティブ画像をプリントする方式が主流であったのに対し、ダゲレオタイプは銀板上に定着されたポジティブ画像そのものが最終的に鑑賞に供される画像となる。このことは、ダゲレオタイプで撮影された写真は一枚しか存在しないことを意味する。またダゲレオタイプに使う銀板は不透明であるから、感光面側から像を鑑賞する形となり、左右が反転した像を見ることとなる。 接触などによって銀板上に定着した像が壊されやすいのもダゲレオタイプの欠点の一つであり、ガラスなどで保護するなどの対策が必要となる。
最初期のジルー・ダゲレオタイプは露光時間が日中で10 – 20分かかり、肖像写真に使えるようなものではなかったが、明るいレンズの開発と感光材料の改良によって最短で数秒程度の露光時間で済むようになった。これは写真湿板よりもやや高感度か、ほぼ同様の性能である。
歴史
カメラ・オブスクラの画像を固定して残そうとする試みは18世紀末以降さまざまに行われてきた。最も早く発表されたのは1802年発表のトマス・ウェッジウッドによる硝酸銀を用いた方法だが、彼は得られた画像を定着する方法にはたどり着いていない。
ダゲレオタイプの発明に直接つながる動きとしては、ダゲレオタイプ発明のもう一人の立役者ニセフォール・ニエプスがカメラ・オブスクラの画像を固定するヘリオグラフィを1824年に開発している。これは、ピューター板(鉛とすずの合金。後には銀メッキ銅板も使用)の上にアスファルトを塗ったものを感光剤として使う方法である。このヘリオグラフィこそが世界最初の写真技法だと言えるが、露光時間が日中の屋外でも8時間もかかるなど、とても実用的とは言えなかった。
パノラマ館やジオラマ館など光学技術を用いた興行を行っていたダゲールは、1824年前後から独自に写真の研究を始めていた。ダゲールは、カメラ・オブスクラなどの光学機器を購入していたシャヴァリエ店のシャルル・シャヴァリエからニエプスの成功を知らされる。ダゲールは1829年12月14日にニエプスと共同研究を行う契約を結んだ。これによって、ダゲールはニエプスの発明の詳細を知ることができた。
ヘリオグラフィとダゲレオタイプはその原理の面から見ればほとんど別物といっていい写真技法である。しかし銀板やヨウ素を使うこと、現像というプロセスのアイディアなどヘリオグラフィからダゲレオタイプに引き継がれた要素も多い。
始めの契約では完成した写真技法にはニエプス、ダゲール両名の名前を残すことになっていた。共同研究の途上でニエプスは死亡し共同研究のパートナーはその息子イジドール・ニエプスに引き継がれた。その後の契約変更でニエプスの名は残されないこととなった。
ダゲレオタイプを完成させたダゲールは、自分の発明に箔をつけるため物理学者のフランソワ・アラゴなど、当時高名だった科学者・芸術家にダゲレオタイプを見せている。アラゴはこの発明を世界に公開するというアイデアを思いつき、そのために特許をフランス政府が買い取り、ダゲールと、イジドール・ニエプスに年金を支払うように働きかけた。そしてこの提案は実現し、ダゲレオタイプは誰もが使えるものとなった。
1839年8月19日、フランス学士院科学アカデミーの定例会において芸術アカデミーとの共催によりダゲレオタイプに関する公開講演が行われた。講演者はフランソワ・アラゴである。ここでダゲレオタイプの全てが公開された。
ダゲレオタイプ発表当時、既にカメラ・オブスクラの画像を固定する技術はいくつか存在した。たとえば現代につながるネガ=ポジ法の創始者であるタルボットは、カロタイプをダゲールの発明以前に完成していたと主張している。しかし、ダゲレオタイプは圧倒的に高精細であり、またフランス政府が特許を買い上げたこともあって瞬く間にヨーロッパとアメリカ大陸に普及した。
後に、銀板をヨウ素蒸気にさらす際に臭素を加えるゴッダード法の開発等により感度を向上させるなど改良が加えられた。
アメリカ大陸では、家族の肖像写真をダゲレオタイプで撮影したものが多く残っている。後に写真湿板が発明されヨーロッパ大陸ではダゲレオタイプが駆逐された後においても、アメリカではしばらくダゲレオタイプによる肖像写真が好まれており、残ることとなった。
Making of Daguerreotype by Takashi Arai *Beta ver.
完訳 ダゲレオタイプ教本―銀板写真の歴史と操作法 (クラシックカメラ選書)