1895年(明治28年)のこの日、富士山頂剣ヶ峯に野中測候所が開設した。
この測候所は大日本気象学会の野中至(1867~1955年)が私財を投じて建設したもので、当時は6畳ほどの小屋で、
- 時に氷点下-30℃
- 時に風速60m/s
など、過酷な環境下で観測を続けていそう。
野中氏の観測は、当時不可能と考えられていた富士山山頂で越冬が可能なことを証明した側面もあり、命がけのチャレンジに日本中の注目が集まりました。
観測を始めたのは10月からで、1923年(大正12年)に開設された気象庁の富士山測候所の前身となった。富士山測候所は、自動観測技術が進歩したために1999年(平成11年)にレーダー観測が廃止され、2004年(平成16年)10月1日に最後の常駐職員が下山し、無人施設となった。
現在、富士山特別地域気象観測所として気圧・気温・湿度などの観測を行っている。また、富士山頂の代表的な構造物であった旧レーダードームなどは、山梨県富士吉田市にある富士山レーダードーム館に移設され、往時をしのばせる施設として見学することができる。
『芙蓉の人』 野中到・千代子夫妻の山頂観測
明治の中頃、大日本気象学会員・野中到は天気予報の精度向上のため高層気象観測の必要性を感じ、私財を投じて富士山頂の気象観測所建設に奔走します。
1895年(明治28年)2月には下見のため富士山へ登頂。これが富士山における厳冬期初登頂記録です。夏には剣ヶ峰に約6坪の観測施設を建て※1、10月1日から12月22日まで観測を行いました。10月中旬には心配した千代子夫人も駆けつけ、観測を手伝います。
それでも過酷な環境での観測は困難をきわめ、12月には夫妻とも高山病と栄養失調で衰弱してしまいます。12月22日、中央気象台(現在の気象庁)からの救援隊によって野中夫妻が担ぎ降ろされるまで観測は続けられました。
当初の目標「越冬観測」こそ叶わなかったものの、こんな高地での冬期気象観測事例は当時世界初。その快挙と命がけの冒険は当時の人々に感銘を与え、現在に至るまで演劇・小説・TVドラマなどに幾度も取り上げられています。中でも有名なのが新田次郎の小説『芙蓉の人』。千代子夫人を主人公に、明治の夫婦愛と冒険心を描く傑作です。
カンテラ日誌
1936年から無人化まで職員が『カンテラ日誌』を綴っていた。厳しい環境下での建設作業や観測、太平洋戦争中の米軍機による都市部への空襲、測候所への機銃掃射(1945年7月10日)、大日本帝国陸軍による高地炊飯実験、イノシシの出現、英国海外航空機空中分解事故(1966年)目撃談など貴重な記録が含まれる。1985年には抜粋が『カンテラ日記 富士山測候所の50年』(筑摩書房)として出版されている。
無人化に伴い東京管区気象台に移管され、2012年には44冊の存在が確認されていた。同気象台は、2018年3月の『毎日新聞』による情報公開請求に対して「不存在」「職員が私的に記したもので公文書にはあたらず、保管義務はない」と回答した。同年8月には行政文書には該当しないため、2017年11月以降に「文書整理の一環」として廃棄したことを明らかにした。
テレビが記録した日本 「富士山」