1915(大正4)年8月18日に、現・全国高校野球選手権大会の前身にあたる
第1回 全国中等学校優勝野球大会
の開会式が大阪・豊中球場で行われたことにちなんで制定された記念日。
同大会は全国を数地区に分けた全73校で予選が行われ、勝ち抜いた10校でのトーナメント方式でした。決勝に勝ち進んだのは京都二中 vs 秋田中で、
2-1で京都二中が優勝
しております。
また、1924(大正13)年開催の第10回大会から開場が甲子園球場に変更され、1948(昭和23)年開催の第30回大会からは、学制改革の影響から、名称が
全国高校野球選手権大会
に改称されております。
が、大会名称が変更された後も、通算開催回数はそのまま引き継がれた数字で現在もカウントされております。
毎回筋書きのない様々な熱いドラマが繰り広げられております。
第1回全国中等学校優勝野球大会
1915年7月1日に「第1回全国中等学校優勝野球大会」の開催を朝日新聞社から発表された。大会開催まで日数が少なく、春に「武侠世界社」(河岡潮風が設立した出版社)主催の東京都下大会優勝した早稲田実と東北、東海、京津、関西、兵庫、山陽、山陰、四国、九州の9地区で予選から参加した73校の中から9校の計10校が代表となった。東北は秋田県内の3校のみで行われ、東京以外の関東と北陸は予選自体が行なわれず、北海道は対外試合禁止のため参加できなかった。
会場となった豊中グラウンドは、1周400メートルのトラックを持つ運動場で、右翼方面が狭い長方形のグラウンド形状、常設の観客席はなく、よしず張りの屋根で覆った木造の仮設スタンドを大会時のみ設置。外野にはフェンスはなく、ロープを境界線とした(このロープをノーバウンドで越すとホームランとした。ホームからの距離は一番深いセンター側で100メートル)。ボールが観客席に入りこむ時も度々だったという。
観客数は、開催5日間で5000人から10000人程度と伝えられている。当時はアクセスとなる箕面有馬電気軌道(現・阪急宝塚本線)の電車は、沿線が市街化途中だったため、1両編成で本数も少なく、試合終了後豊中駅に殺到する観客が乗車口に溢れた。
審判は球審と塁審二人のほかに陪審を置いた。陪審はネット裏で観戦し、何か問題が起こった時に三人の審判に相談にのったり試合評を書く役目だったが、この大会だけで廃止となった。
優勝校には優勝旗、銀メダル、選手にはスタンダード大辞典、50円図書切手、腕時計が贈られた。準優勝校には英和中辞典、1回戦の勝利校には万年筆が選手全員に送られた。しかし大会終了後に、選手に数々の副賞を贈るのはどうかと議論が起こり、翌年からは優勝旗と参加メダルのほかは、おみやげとして大阪名物の粟おこしだけとなった。
代表校
地方大会 | 代表校 | |
---|---|---|
東北 | 秋田中 | 秋田 |
東京 | 早稲田実 | 東京 |
東海 | 山田中 | 三重 |
京津 | 京都二中 | 京都 |
兵庫 | 神戸二中 | 兵庫 |
関西 | 和歌山中 | 和歌山 |
山陽 | 広島中 | 広島 |
山陰 | 鳥取中 | 鳥取 |
四国 | 高松中 | 香川 |
九州 | 久留米商 | 福岡 |
第1回大会のため、全ての学校が初出場であった。
始球式
第1試合前の両チーム(広島中学と鳥取中学)の整列・礼のあと、朝日新聞社村山龍平社長が、羽織袴の和礼装でマウンドに立ち、史上第1球を投じた。ボールはまっすぐにキャッチャーミットに収まり、ストライクが宣告された。村山は、この日のために投球練習を重ねていたという。
尚、現在は始球式の投球はあくまでセレモニーであり、1回表の投手の投球から正式な第1球としてカウントされているが、2000年に発刊された「高校野球の100年」によると、何故か始球式で投じられた第1球がそのまま、先頭打者である広島中学の小田大助に対する「初球」としてカウントされている。結果、小田は三振に打ち取られているが、訂正されなかったと言う。
また、投手として高校野球関係の全国大会における記念すべき第1球を投じた鳥取中の鹿田一郎が後年NHKの取材に応じた際には、試合の先攻後攻はじゃんけんで決めた(現在も同様)ため、自分がそのような投手になったのは偶然だったと答えており、始球式の際には村山たちの後ろで緊張して立ち尽くしていたという。
試合結果
日程は今日に比べ、変則的に組まれていた。
1回戦
- 8月18日 鳥取中 14 – 7 広島中
- 8月19日 和歌山中 15 – 2 久留米商
準々決勝
- 8月18日 京都二中 15 – 0 高松中
- 8月18日 早稲田実 2 – 0 神戸二中
- 8月19日 秋田中 9 – 1 山田中
- 8月20日 和歌山中 7 – 1 鳥取中
準決勝
- 8月20日 秋田中 3 – 1 早稲田実
- 8月21日 京都二中 1 – 1 和歌山中(9回裏1死1塁・降雨引き分け)
- 8月22日 京都二中 9 – 5 和歌山中(再試合)
決勝
- 8月23日
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | R | H | E |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
秋田中 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 7 |
京都二中 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1x | 2 | 7 | 2 |
- (延長13回)
- (秋) : 長崎 – 渡部
- (京) : 藤田 – 山田
- 審判:球審…菊名、塁審…井上・岡本
大会本塁打
第1号:中村隆元(広島中)
大会エピソード
- 第1回大会から63年後の1978年、週刊朝日第60回大会記念号及び当時の朝日新聞紙面において、「第1回大会の出場者は今」という企画で、第1回大会出場者109名のうち当時の存命者20人全員を取材した。そこでは既に80歳前後となった”元球児”たちのそれぞれの第1回大会の回想や白球への思いが語られている。その20名の中には始球式の第1球がカウントされてしまった広島中・小田選手や、第1号本塁打を放った広島中・中村選手も含まれていた。週刊朝日の企画では、存命者だけでなく物故者も含めた第1回大会出場者109人全選手の「その後」までも取材している。
- 2015年の第97回全国高等学校野球選手権大会は、1915年に第1回全国中等学校優勝野球大会が開催されてから100年となるのを記念して、開会式では、選手権大会100周年の記念事業として、第1回大会に出場した10校の後続校(秋田高校、早稲田実業学校、宇治山田高校、鳥羽高校、兵庫高校、(和歌山)桐蔭高校、鳥取西高校、広島国泰寺高校、高松高校、久留米商業高校)の野球部員1名が100年前のユニフォームを再現し、「高校野球100年」と書かれた青帯を持って入場行進した。選手宣誓は主催者側の提案により、第1回大会優勝校の京都二中の後続校でこの97回大会の出場校でもある鳥羽高校の梅谷成悟主将が行なった。なお、この97回大会では、鳥羽高校は3回戦(ベスト16)に進出、早稲田実業は準決勝に進出したが、第1回大会も第97回大会も、京都二中・鳥羽高校と早稲田実業とは対戦していない。
- この大会で秋田中学が決勝戦に進出するも、秋田県勢からは第100回全国高等学校野球選手権記念大会の金足農業高校まで103年間決勝に進出していなかった。
- この大会で早稲田実業の捕手を務めた岡田源三郎は、後に1936年(昭和11年)の職業野球発足と共に名古屋金鯱軍に監督兼任ながら選手として入団、第1回大会に出場した選手の中で唯一のプロ野球選手となった。