1959年(昭和34年)の8月26日、世界中で愛され続けているイギリスの小型車「Mini」が誕生した。これからもMiniが愛され続け、永遠の名車であることを願い記念日とした。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
Miniについて
Mini(ミニ)は、イギリスのブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)が生んだ大衆車である。自動車としての必要最小限を形にした設計は、登場当時、革命的とまでいわれた。4人乗りで、2ドアのセダン・ステーションワゴン・ライトバンなどがある。販売期間は1959年(昭和34年)~2000年(平成12年)である。
長く低迷したイギリスの自動車工業界の状況を反映し、生産・販売会社の名前は幾度も変わったが、Mini自体は40年以上に渡り生産・販売が継続された。1990年(平成2年)頃には日本の企業がMiniの製造・販売権を取得する計画もあったが実現せず、1994年(平成6年)以降はドイツのBMWが、ランドローバーと同時にローバーを傘下とし、Miniにまつわる権利も手中にした。
Miniは今の車では当たり前のように使われているFF(エンジン前置き・前輪駆動)方式の市販車で最初の車でもあり、前輪駆動が広く普及するきっかけとなった。Miniはとてもコンパクトで、その小さい車の中に大人4人が乗れるように部品がパズルのように入っている。
イギリスの名車Miniの概要
当時としては珍しかった前輪駆動車で、機械類を小さく、居住スペースを最大限に取ったパッケージングは自動車としての必要最小限を形にした設計で、登場当時革命的とまでいわれた。
長く低迷したイギリスの自動車工業界の状況を反映し、生産、販売会社の名前は幾度も変わったが、40年以上に渡り生産、販売が継続された。平成2年 (1990年) 頃には日本の企業がミニの製造、販売権を取得する計画もあったが実現せず、平成6年(1994年)以降はドイツのBMWが、ランドローバーと同時にローバーを傘下とし、ミニにまつわる権利も手中にした。
BMWは新規に投入する同社初となる前輪駆動車をニューミニと位置づけ、それまでの資産(ヘリテイジ)を生かしたビジネスモデルとすべく、傘下となった旧ローバーの技術者による車両開発を行ない、平成13年 (2001年) から英国のオックスフォード工場(旧ローバー社カウリー工場)で生産を開始し、販売されている。
BMWのミニが登場したことで、初代ミニは「クラシックミニ」「BMCミニ」「ローバーミニ」とも呼ばれる。またスポーツグレードである「ミニクーパー」の名称も高い知名度を誇っている。
日本では優れたパッケージング、愛らしいデザイン、軽自動車相当のコンパクトなサイズなどが評価され、モデル晩年は日本が主要マーケットとなっていた。
ミニは技術的には非常に優れた車であり、今なお、ミニを称賛する自動車評論家や業界人は数え切れない。ただし意外にも、大ヒット作でありながら、メーカーにはほとんど利益をもたらさなかったとされている。構造が複雑で、ベーシックカーとしてはコストが高かったためであった。
ミニマムカーの発想
第二次世界大戦前から在籍していたナッフィールド・オーガニゼーションが、ライバルであるオースチンと合併してBMCになると、アレック・イシゴニスは社内の環境に不満を感じ、一時高級車メーカーのアルヴィスに移籍した。同社で高級スポーツカーの開発に取り組んだが、結局その生産化は頓挫し、BMCの経営責任者であるサー・レナード・ロードの招きを機に、1955年にBMCに戻ってきた。
1956年9月、スエズ動乱が中東で勃発し、国際的に石油価格が高騰したことが、開発環境の大きな転機となった。
当時、中東の油田依存率が高かった西ヨーロッパ諸国は、時ならぬオイルショックに陥った。イギリスの大衆層は排気量1,000 cc 前後のまともな乗用車を維持することが困難になり、当時、西ドイツなどで生産されていた200 – 400 cc の、バブルカーと呼ばれる2 – 3人乗りミニカーを購入するようになった。それらは確かに経済的ではあったが、単気筒・2気筒の空冷エンジンを搭載したけたたましい乗り物で、イギリスの税制では節税になる3輪型のモデルも含まれ、居住性や操縦性といった本格的な自動車に求められるような性能を欠いていた。
大衆が粗末なバブルカー購入に走るのを憂いたサー・レナード・ロードは、対抗のため、自社開発陣に「極めて経済的な4人乗り小型車を早急に開発すること」を命じ、イシゴニス率いるBMC開発チームは、一般的な小型車でなく、既存の自社モデル(オースチン・A30やモーリス・マイナーといった、1,000 cc 未満の小型車)よりもさらにコンパクトなニューモデルの設計を再考することになった。
横置きエンジンと前輪駆動
ロード会長の示した開発条件は、裏を返せばエンジン以外は設計陣にあらゆる手段を用いることを許容するものであった。
アレック・イシゴニスは、BMC以前のナッフィールド・オーガニゼーション時代の1940年代中期に手掛けた傑作大衆車モーリス・マイナーの試作過程で、前輪駆動方式の採用を検討したことがあった。そして当時、前輪駆動を前提に、車軸と並行に横置き搭載すれば、直列4気筒エンジンでもボンネットの前後長を短縮できるという発想に到達していたのである。第二次世界大戦直後の時点では時期尚早で実用化困難であったが、それから10年余りを経てイシゴニスは再びその着想の実現に動き出した。
既にBMCにとって手慣れた手法になっていたモノコック構造が採用されたが、乗客の居住スペースは4人を収める最低限に切りつめられ、後部オーバーハングも切り詰められた。それまでのイギリス製小型車にありがちだった、こんもりと盛り上がった背の高いキャビンは、床の低い新しいコンセプトの前輪駆動車ではもはや不要だった。さらなるスペース節減のため、タイヤはバブルカーより若干大きい程度で、まともな自動車ではほとんど先例のなかった10インチ(in)の超小径サイズが、ダンロップとの交渉で新たに開発された。
横置きエンジンによる前輪駆動自体は、2気筒の軽便な車両では第二次世界大戦以前から見られたが、一回り大きい直列4気筒エンジンでは実用車として世界でほぼ最初であった。最低限のスペースに4気筒水冷エンジンとラジエーターを収めるため、ラジエーターは一般的なフロントグリルの内側ではなく、効率が悪いのを承知で、横置きにしたエンジンの左側にレイアウトされた(従って、冷却促進はエンジンのクーリングファンのみが頼りだった)。更にオートバイの手法を援用し、トランスミッションのギアセットはエンジン下部のオイルパンを大型化してその内部に搭載、ギアの潤滑はエンジンオイルを共用する構造とした。
サスペンション形式は、フロントがウィッシュボーン、リアがトレーリングアームであるが、生産性向上対策でサブフレーム組み付けを用いつつも大変にコンパクトに設計されている。これらに組み合わされるスプリングには、一般的な金属ばねではなく、当時ばねの先端素材として注目されていたゴムを採用した。ダンロップの技術者アレックス・モールトンの設計による、円錐状に成型されたゴムばねを用いたラバーコーンサスペンションである。このばねは強いプログレッシブレートを持ち、最小のストロークで最大のエネルギー吸収量を得る様に設計されている。この強いプログレッシブ・レートを持つばねや、フロントが高くリヤが路面上にあるという特異なロールセンター設定のサスペンション、量産車としては今日の基準でも驚異的に速いステアリングギアレシオや、回転慣性モーメントやジャイロ効果の小さい10 in のタイヤなどによってゴーカートのようなハンドリングが生まれた。
更にこの当時(1950年代後期)、イギリスのハーディ・スパイサー社(1966年にGKNが買収)の手で、前輪駆動に適した「バーフィールド・ツェッパ等速ジョイント」が実用・量産化されたことが、イシゴニスのコンセプトをより現実的なものにした。ツェッパ式のボール・ジョイントは、前輪駆動車の旋回時に、ドライブシャフトが大きな屈曲を伴ってもほぼ等速で滑らかに駆動力を伝達できる理想的なジョイントであった。まだ高価なパーツだったが、タイヤが小さく、かつサスペンションストロークの小さなミニは、ドライブシャフトのタイヤ側だけにこのジョイントを使えば済んだ(デフ側のジョイントは、旧式だがコストを抑えられるダブルカルダンタイプで間に合った)。
横置きエンジン方式自体は時代に先んじたエレガントな技術革新だったが、ミニと同じ二階建てパワートレインの「イシゴニス・レイアウト」を採用した車種は非常に少なく、イシゴニスの手になる、ミニの拡大版ともいえるBMCのADO14、ADO16、ADO17、ポストイシゴニスのADO27、ADO67以外では、フランスのプジョー・204、304やプリンス自動車時代に設計が始まった日産・チェリーと、ミッドシップのランボルギーニ・ミウラ程度しかなく、より広く普及して一般化したのは、イタリアで1960年代に開発され、トランスミッションをエンジンと直列に横置きして車両内での前後長を短縮した、ジアコーサレイアウトであった。
FF車のエンジンとトランスミッションの配置はメーカーごとにさまざまであったが、現在では、四輪駆動を主力商品とするメーカーであるアウディやスバルに縦置きエンジンのFFが見られるのみで、ほとんどのFF車はジアコーサ式の横置きエンジンとなっている。
デザイン
オリジナルの2ドアボディのデザインは、リアトランク用のオーバーハングをも切り詰めた、1950年代後期には類例の乏しかった純粋な2ボックスレイアウトで、全長は3 m ほどに過ぎなかった。それでもリアシートの後ろには(片隅を燃料タンクに取られてはいたが)最小限のトランクルームが確保されていた。10 in タイヤと前輪駆動の効果によって、床も車高もこの時代ではずば抜けて低く、ロードクリアランス(最低地上高)は実用車としての最低限レベル、車高は1,400 mm にも満たないが、大人4人が乗りこめるスペースが確保されていた。
当時、リアエンジン車では2代目フィアット・500(1957年)やスバル・360(1958年)のように、4座で3 m クラスを実現した事例もあったが、850 cc の水冷4気筒をフロントに搭載して大人4人定員とした乗用車で、ここまで小型化された事例はなかった。
このコンパクトなボディは、設計者のイシゴニスが自らのスケッチでデザインするという異例の過程でスタイリングされた。コンセプトと内部構造を熟知した設計者自身によるスタイリングは、機能に直結した合理性に富むもので完成度が高く、そのまま生産されることになった。ミニの実車を間近で観察すると目につく点のひとつにフランジ状に張り出した外板の継ぎ目があるが、これは組み立て時の手間を省いた結果である。
ローバーミニ ポールスミス ホワイト|Rover Mini Paul Smith White
[ローバーミニ] 僕の相棒ミニを紹介します。