日本バス協会が1987年(昭和62年)に行った全国バス事業大会で制定。
1903年(明治36年)のこの日、二井商会による乗り合い自動車が京都市内の堀川中立売~七条~祇園の間を走った。これが日本初の営業バスとされている。最初のバスは、蒸気自動車を改造したもので6人乗り、風雨や砂ぼこりなどを防ぐための幌(ほろ)もなかった。
明治時代はライバルの乗合馬車屋からの妨害や車両の故障が相次ぎ、本格的な営業の継続が難しかったという話もある。大正時代に入ると、自動車の信頼性も高まり、全国的にバス事業の揺籃期(ようらんき:物事の発展する初期の段階)となった。その頃は、多くが数人乗りの小さな乗用車を使っていた。
12月15日は「観光バス記念日」となっている。この記念日は、1925年(大正14年)に東京乗合自動車により日本初の定期観光バスである「ユーランバス」の運行が開始されたことに由来する日である。
バスの歴史
黎明期
1902年(明治35年)の大阪毎日新聞、読売新聞、1903年(明治36年)の新愛知、岐阜日日新聞の記事などから、高知県高知市中新町(現在の高知市桜井町)の今政猪熊が、1902年(明治35年)3月までに大阪で製造した石油発動機車(特許第4043号「石油機関車」明治33.4.5、天川佐兵衛のを用いたものと推察)を使って、1902年(明治35年)3月頃から1903年(明治36年)7月頃まで高知~伊野間で乗合自動車を営業運行したと推察され、車両の定員などの詳細は不明ながら、これが日本で最初のバス事業であった可能性もある。
1903年(明治36年)3月、大阪で開かれた内国勧業博覧会への旅客輸送のために、梅田と天王寺を結ぶ臨時バス路線が開設された。
同年9月20日、二井商会が京都市内でのバス営業運転を始めようと試みたが初日から営業中止勧告を受け、11月21日に正式に営業を開始した。日本バス協会は日本における最初のバス事業をこの二井商会の例としており、同社の試運転の日である9月20日をバスの日と1987年(昭和62年)に定めた。ただし、使用車両は6人乗りであったため、車両的にバスと言えるのか判断が分かれる。広島で運行されたバスのレプリカ
1905年(明治38年)2月]、広島の横川から可部の間に12人乗りのバス(写真)が運行された。これを日本で最初のバスの運行とする説もある。しかし、車両の故障などの頻発、費用の不足(部品の調達のため銀貨を溶かした事もあった)もあったため、9月で営業を終了した。
初期のバス事業では様々な問題が生じた。上記の京都市で営業していた業者は、人力車組合や同市内で軌道を運営していた事業者の反発にあい、執拗な妨害工作を受けた結果、廃業せざるを得なくなってしまう。このような既存の旅客事業者との間の軋轢は各地で見られた。また、当時は道路の舗装が進んでいなかったため、バスがスペック通りの能力を発揮することが出来ず、表定速度がなかなか改善されない状況があった。しかし、車両が1台あれば運行できるという利点を持っていたため、会社の体を成していない零細な事業者や個人によるバス事業への参入は相次いでいった。
大正時代
1923年(大正12年)9月1日に大正関東地震(関東大震災)が発生すると、被災地の東京府下は鉄道軌道が寸断され、人々の日常の足が奪われることとなった。応急的な処置として、被災した東京市電の代わりに東京市電気局がT型フォードを約800台輸入し、11人乗りに改造してバス事業を開始した。このバス事業は好評を持って迎えられ、応急的なつもりであったのが恒常的な運行へと変化し、「円太郎バス」との愛称も付けられた。この東京市での成功によって全国にバス事業が広まり、また、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まって、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した。
その一方、既存の鉄道や軌道に並行に走るバス路線の設定などが増え始め、それらに悪影響を及ぼすようになって来た。そこで、これら鉄軌道運営事業者がその事業者を買収する、あるいは自ら系列バス会社を立ち上げて鉄道空白地帯から自社鉄道駅までのバス路線を開設することで乗継客による自社鉄道の増収にも繋げたりと、鉄軌道事業者におけるバス事業への進出も進むようになって来た。