1853年のこの日(旧暦嘉永6年6月9日)、マシュー・ペリー提督率いる黒船艦隊4隻が江戸湾の浦賀に来航した。
蒸気船をお茶の銘柄の上喜撰にかけて「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」と狂歌に詠まれるほど、江戸の街は大混乱となった。ペリーはアメリカ大統領の国書を江戸幕府に渡し、返事を聞くため1年後に再来航すると告げた。幕府は、翌年のペリー再来に備えて品川沖に6基の砲台(台場)を完成させた。しかし翌年1854年、再来したペリーとの間で「日米和親条約」が結ばれ、日本の鎖国は終わった。
マシュー・ペリー
マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 – 1858年3月4日)は、アメリカ海軍の軍人。兄に、エリー湖の戦いにおけるアメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリー。
江戸時代に艦隊を率いて鎖港をしていた日本へ来航し、開港への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた。
ロードアイランド州ニューポートで、アメリカ海軍大尉のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラの間に三男として生まれる。1809年、わずか14歳9か月で士官候補生の辞令を受けアメリカ海軍に入隊、1812年からの米英戦争に2人の兄とともに参加する。1833年にブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年にアメリカ海軍で2隻目の蒸気フリゲートフルトン号を建造し、同年海軍大佐に昇進した。1840年6月には同海軍工廠の司令官となり、代将の地位を得る。
1846年に米墨戦争が勃発すると、後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令として参加、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮、後には本国艦隊の司令官に昇進した。蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)とたたえられ、海軍教育の先駆者とされている。
日本開国任務
1852年11月に、東インド艦隊司令長官に就任、日本開国へ向けて交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を与えられた。同年11月、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由した。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀に入港した。7月14日(6月9日)、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。
太平天国の乱が起こり、アメリカでの極東事情が変化する中、1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求め、3月31日(3月3日)に神奈川で日米和親条約を調印した。またその後、那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。その後、艦隊は香港に向かった。
ペリー艦隊
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に江戸湾の浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻の軍艦。日本人はこれを「黒船」と呼んだ。
一般には「東インド艦隊」と呼ばれるが、「フリート」 (fleet) ではなく「スコードロン」 (squadron) であるため、現代の軍事用語では「小艦隊(または戦隊)」に該当する。ただし、当時のアメリカ海軍にはフリートは存在せず、軍艦の集団としてはスコードロンが最大の単位であった。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」と狂歌に詠まれたが、来航した黒船4隻のうち蒸気船は2隻のみであった。
- 旗艦:「サスケハナ」(USS Susquehanna) 1850年12月24日フィラデルフィア海軍工廠で竣工
- 外輪式フリゲート:水線長76メートル、満載排水量3,824トン、乗員300名。
- 装備 10インチ砲3門、8インチ砲6門
- 「ミシシッピ」(USS Mississippi)
- 外輪式フリゲート:水線長70メートル、満載排水量3,230トン
- 装備 10インチ砲2門、8インチ砲8門
- 「プリマス」(USS Plymouth)
- 帆船:水線長45メートル、満載排水量889トン
- 装備 8インチ砲8門、32ポンド砲18門
- 「サラトガ」(USS Saratoga)
- 帆船:水線長45メートル、満載排水量896トン
- 装備 8インチ砲4門、32ポンド砲18門
ペリー晩年
日本遠征記などの出版に注力をした。また、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていた。1858年3月4日ニューヨークで死去、63歳だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にあり、娘アンナとともに納められている。
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