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8月9日今日は何の日?:ながさき平和の日(長崎原爆忌)

投稿日:

長崎市に投下された原爆のキノコ雲

1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、アメリカ軍のB29爆撃機「ボックス・カー」が原子爆弾『ファットマン」を長崎に投下。

プルトニウム239を使用した原子爆弾は、同年8月6日に広島へ投下されたウラン235型原子爆弾・リトルボーイよりも約1.5倍の威力があったとされております…。

長崎・浦上地区上空で爆発した原子爆弾は、半径200mもの火の玉を生じさせ、その表面温度は約8,000℃以上だったとも言われております。

地面の温度は爆心地で3,000℃〜4,000℃にもなり、周辺一帯を巻き込み約15万人以上の死傷者を出しました…。

原爆で犠牲になった方々の他にも後遺症に悩まされる方も多く、この悲劇を決して忘れず、二度と繰り返させない思いから建てられた「平和祈念像」のある長崎県長崎市・平和公園内にて、例年8月9日には

慰霊平和祈念式典

が執り行われております。

また、長崎市では世界平和を祈ることを目的に、8月9日を『ながさき平和の日』として独自に記念日を制定しております。

 

原爆投下時

香焼島から撮影された長崎原爆のキノコ雲(松田弘道撮影)

テニアンから小倉上空

8月6日の広島原爆投下作戦において観測機を務めたB-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われるためにその指揮を執ること、目標は第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市であることを告げられた。

その時に指示された戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機無しで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものであった。この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いた。

出撃機は合計6機であった。

スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストであったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機はボックスカーとなったのである。

ボックスカー機首部分

ボックスカーには、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原爆を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した。

先行していたエノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲量は10分の2であるとの報告があった。

硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機のグレート・アーティストとは会合できたが、誤って高度12,000mまで上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは会合できなかった。40分間経過後、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行することにした。

午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙(2014年7月26日の毎日新聞報道によれば、原爆を警戒した八幡製鐵所がコールタールを燃やして煙幕を張っていた)のために、目視による投下目標確認に失敗する。この時視界を妨げていたのは前日にアメリカ軍が行った、八幡市空襲(八幡・小倉間の距離はおよそ7km)の残煙と靄だといわれる(アメリカ軍の報告書にも、小倉市上空の状況について『雲』ではなく『煙』との記述が見られる)。この時地上では広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所の従業員が少数機編隊で敵機が北上している報を聞き、新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」と証言している。その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分間が経過した。

この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきたことも確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。

長崎上空

長崎に向かう途中、トラブルが発生した。グレート・アーティストの居場所について声をかけられた航法士が、インターホンのボタンを押したつもりが誤って無線の送信ボタンを押してしまったのである。直後、「チャック! どこにいる?」という、未だ屋久島上空で旋回しているホプキンズからの返事が返ってきた。結果的に無線封止を破ってしまったボックスカーは、なぜか急旋回してグレート・アーティストとニアミス。危うく空中衝突をするところであった。

長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。

ボックスカーは小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前10時50分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で覆われていた。

補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。

「街が見える!」 「Tally ho! 雲の切れ間に第2目標発見!」

スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。工業地帯を臨機目標として、午前10時58分、高度9,000mから「ファットマン」を手動投下した。ファットマンは放物線を描きながら落下、約4分後の午前11時2分、市街中心部から北へ約3kmもそれた松山町171番地の別荘のテニスコート上空503m±10mで炸裂した。

「ボックスカー」は爆弾を投下直後、衝撃波を避けるため北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。爆弾投下後から爆発までの間には後方の「グレート・アーティスト」から爆発の圧力、気温などを計測する3個のラジオゾンデが落下傘をつけて投下された。これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村上川内(爆心地から11.6km)、田結村補伽(同12.5km)、江の浦村嵩(同13.3km)に落下した。

「ボックスカー」と「グレート・アーティスト」はしばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。

長崎を090158Zに有視界で爆撃した。戦闘機の迎撃も、対空砲火もなし。結果は「技術的には成功」といえるが、他の要素のため、次の行動に移る前に、会議が必要である。外見上の効果は広島と同じ。投下後の機内の故障により、沖縄に向かう必要あり。燃料は沖縄までしかない。— 長崎市編『ナガサキは語りつぐ』岩波書店 1995年 91頁)

原爆投下前と後の長崎市

この時の原爆爆発の様子は16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録された。この映像には爆発時の火の玉からキノコ雲までがはっきりと写っている。

長崎のキノコ雲については、爆心地から約10km離れた香焼町で炸裂から約15分後に住民が撮影した写真が残されている他、遠くの県からも見えたとの証言もある。約100km離れた熊本県熊本市でも「ピカッと閃光が走り、空気がぶるぶるっと震え、遠くにキノコ雲が上がるのが見えた」との証言がある。また遠く200km離れた大分県中津市でも「あの日長崎方面から立ち上がるキノコ煙が見え、何事かと不安になり恐ろしかった」と当時を語る証言もある。

長崎原爆

ファットマンのモックアップ

長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾である。このプルトニウム原爆はインプロージョン方式で起爆する。長崎原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000t(22kt)相当の規模にのぼる。この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15,000t相当)の1.5倍の威力であった。

長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた「リトルボーイ」の威力を超えたとも言われている。

仮に最初の標的であった小倉市に投下されていた場合、平坦な土地が広がり、本州と九州の接点に位置するために、関門海峡が丸ごと被爆し、小倉市および隣接する戸畑市、若松市、八幡市、門司市、即ち現在の北九州市一帯と下関市まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測される。

 

原爆投下直前

屋久島上空から小倉へ原爆投下に向かうB29により、長崎には朝から空襲警戒警報が出ており、一旦は避難した市民も多かったが、午前10時過ぎには解除されたため、大半の労働者・徴用工・女子挺身隊は、軍需工場の作業に戻ったとされている。

長崎原爆戦災誌によると、広島の新型爆弾の惨状を聞いた永野若松県知事は8日夜、警察の部課長や署長を官舎に集め、同じ爆弾が長崎に落とされる恐れもあるとして、明日にでも会議を開いて対策を検討しようと指示を出した。

そして9日、避難命令が一番いいと考えた永野知事は会議を招集したものの、9日朝は空襲警報が出ており、警察幹部は長崎市立山の県防空本部(立山防空壕)を動けなかったため、知事が自ら同本部へ駆けつけ、会議を始めた途端に爆弾が投下され、壕内の電気が消え真っ暗になったとされている。また同盟通信社長崎支局には、当日午前11時に県の防空課長から、新型爆弾に対する戦訓を広く発表したいとの招集があったとされる。

また前述の長崎上空での無線傍受により、原爆投下直前の10:58から「長崎市民は全員退避せよ」との臨時ニュースが福岡、熊本、佐賀3県のラジオ放送で流れたことも分かっている。その臨時ニュースは、「総退避」の叫び声が流れる中、原爆の投下と同時に無変調となった。

 

原爆投下直後

破壊された浦上天主堂(1946年1月7日撮影)
荒野状態の浦上天主堂付近

原爆は浦上地区の酸素魚雷の工場の直上で爆発し、付近一帯を壊滅させた。爆心地である浦上地区は長崎市中心部から3kmと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であり、広島市の場合と異なり県や市の行政機能は全滅を免れている。浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。浦上教会(浦上天主堂)では原爆投下時に告解(ゆるしの秘跡)を行っていたが、司祭の西田三郎・玉屋房吉を初め、数十名の信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となった。

長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士(主に英軍・蘭軍兵士)の死傷者も大勢出たと言われている。

特異例として広島で被爆後親戚を頼って長崎へ疎開していた人物が再び長崎で被爆・または出張などで広島を訪れていた人物が被爆し、実家のある長崎で再び被爆したという事例(二重被爆)も確認されている。

 

原子爆弾の運搬から長崎市に投下までの映像

 

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