1913年(大正2年)の8月16日、東北帝国大学(現在の東北大学)が女子受験生3人の合格を発表し、日本初の女子大生が誕生した。
合格した女子大生は黒田チカ・牧田ラク・丹下ウメの3人で、黒田チカは日本初の女性化学者となり、丹下ウメは日本で二人目の女性農学博士となった。女性で初めて帝国大学に入学、卒業した。
黒田チカ
黒田 チカ(くろだ チカ、1884年3月24日 – 1968年11月8日)は日本最初の女性化学者。お茶の水女子大学名誉教授。植物色素の構造決定を行ったことで知られる。天然色素に関する黒田の研究は、2013年3月に日本化学会がその関連資料を化学遺産に認定]。 佐賀県佐賀郡松原町(現・佐賀市松原)生まれ。
略歴
父平八、母トクの7人兄弟姉妹の三女として1884年(明治17年)に佐賀県に生まれる。「これからは女子にも教育が必要」と考え子どもは大学へ上げようとした両親の方針もあり、黒田チカは1901年(明治34年)に佐賀県師範学校(現・佐賀大学文化教育学部)女子部を卒業、小学校教員として1年の義務奉職を経ると1902年(明治35年・18歳)、上京して女子高等師範学校理科へ進む。在学中の1903年(明治36年)にはマリー・キュリーがノーベル物理学賞受賞、黒田は1906年(明治39年)に卒業すると福井県師範学校女子部に職を得る。翌1907年(明治40年)、母校の研究科に入学、2年で修了すると (1909年(明治42年・25歳)、東京女子高等師範学校に改称した母校で助教授に任ぜられる。
1913年(大正2年29歳)、東北帝国大学(現・東北大学)理科大学化学科に進み、日本初の帝国大学女子学生の一人となる。他に牧田らく、丹下ウメ (40歳)がいた。1911年にはマリー・キュリーが2度目のノーベル賞を受けている。1916年(大正5年)、同学科を卒業し日本女性初の理学士となると副手の職を得る。2年後の1918年(大正7年・34歳)、天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現・日本化学会)で発表する(女性理学士の発表は初)。
研究生活
黒田は文部省外国留学生として1921年(大正10年・37歳)英国オックスフォード大学へ国費で渡り、2年間の在外研究を経験している。1923年(大正12年)8月、アメリカ経由で帰国、11月に上京してお茶の水女子大学で講義をするとともに、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始める。5年を費やした研究により1929年(昭和4年)博士号を受けた黒田は45歳、保井コノに続く女性理学博士第2号の誕生である。学位論文は『紅花の色素カーサミンの構造決定』。
タマネギの中のケルセチンが血圧降下作用があることをかねてから発見しており、1953年(昭和28年)12月に特許を得てケルチンCとして市販される。
1958年4月26日、黒田を会長として日本婦人科学者の会が発足する。1968年(昭和43年)11月8日、福岡で逝去、84歳没。従三位叙位。
丹下ウメ(梅子)
丹下 梅子(たんげ うめこ、1873年3月17日 – 1955年1月29日)は、日本の栄養学者、化学者。辻村みちよに次いで日本人女性として2人目の女性農学博士である。女性で初めて帝国大学に入学、卒業した。
資料によっては、丹下ウメと表記しているものもある。
人物・生涯
1873年(明治6年)に鹿児島県鹿児島府下金生町ほか十四町(現在の山形屋鹿児島本店付近)の商家、戸高丹下伊左衛門と丹下エダの三女として生まれる。幼年時にままごとの竹箸を持ちながら走っていたときに転倒して竹箸が右眼に刺さり、失明する。
鹿児島師範学校(現在の鹿児島大学教育学部)を卒業後、当時の女子師範附属尋常小学校(現在の鹿児島市立名山小学校)の教師になる。28歳で日本女子大学校家政科一回生に入学、卒業後は大学に残り、長井長義の助手として勤務し、女性初の文部省中等化学教員検定試験に合格する。1913年(大正2年)に40歳で宮城県仙台市の東北帝国大学理科大学化学科へ入学し(当時は他の帝国大学、専門学校は女子及び旧制高等学校以外の出身者の入学は認めていなかった)、同時に入学した黒田チカ、牧田らくと共に女性初の帝大生となる。東北帝大卒業後、48歳で渡米し、アメリカ合衆国のスタンフォード大学、コロンビア大学で栄養化学を修め、54歳のときジョンズ・ホプキンス大学にてステロール研究で博士号を取得した。帰国後は母校である日本女子大学校の栄養学の教授を務め、理化学研究所に入所し鈴木梅太郎のもとでビタミンの研究を行った。67歳の1940年(昭和15年)にビタミンB2複合体の研究で東京帝国大学から農学博士の学位を受ける。1955年(昭和30年)、82歳で死去するまで独身を通し、女性化学者の先駆者として学究一筋の生涯であった。
母校の日本女子大では功績を記念して、丹下記念奨学金を設けている。