1957年(昭和32年)の12月11日、日本で初めて百円硬貨が発行された。戦後初めての銀貨だった。
素材は主に銀(銀60%・銅30%・亜鉛10%)で、図柄は表面に鳳凰、裏面に旭日と桜花、直径は今と同じ22.6mm。それまでは板垣退助の肖像の百円紙幣が使われていた。
その後、1959年(昭和34年)、図柄が鳳凰から稲穂へと変更された。これは図柄のみの変更で銀貨のままだった。
1967年(昭和42年)、現行の百円硬貨が発行されるが、素材は銀から白銅(銅75%・ニッケル25%)に変更され、図柄も桜の花三輪へと変更された。素材の変更は銀の値段が高くなったことが理由として挙げられる。また、この百円玉に描かれているのは、日本を代表する桜の山桜(ヤマザクラ)である。
百円銀貨
1957年に戦後初めての銀貨として表面に鳳凰、裏面に旭日を意匠とする100円銀貨が発行された。硬貨では、当時の最高額面(最高額面の紙幣は、同年に発行された5,000円紙幣)。その2年後の1959年には量目・品位をそのままに、デザインが稲穂に変更された。なお、この際に五十円硬貨もデザインが変更となり、デザインはともに一般公募された。製造期間は昭和34年~41年だが、昭和37年銘は製造されていない。
1964年には東京オリンピックが開催され、それに合わせて100円銀貨のデザインを一部変更した記念貨幣が昭和39年度の通常百円硬貨製造計画8000万枚の枠で製造発行された。その記念貨幣は、表面は聖火と五輪が入ったデザインとなり、裏面については「100」の字体が少々太い他、通常貨幣ではその数字の左右にある横線が記念貨幣では除かれており、「TOKYO 1964」の文字が追加されているデザインとなっている。年号表記は、「昭和三十八年」のように通常貨幣では漢字で統一されている文字が「昭和39年」の様に漢字と数字が混在したものとなった。
当初は10年間で8億枚を製造する計画であったものの保有銀量が不足していたうえ、電子工業、写真工業など当時世界的な銀需要が増大していた。アメリカが1965年から50セント硬貨の銀量を引き下げ、25セント硬貨や10セント硬貨を白銅張り銅に切り替えるなど、世界的な銀貨離れの中、日本もこれに倣い1967年から白銅貨に切り替えられることとなり、稲穂デザインの百円銀貨は一般流通用として日本最後の銀貨となった。なお百円銀貨が発行されていた時代には、板垣退助の肖像の百円紙幣(B百円券)と並行して流通していたが、この紙幣が日本銀行から支払い停止になったのは、百円白銅貨の発行後の1974年であった。
これら2種の100円銀貨の品位は.600である。2017年時点での銀相場は、1グラムあたり70円前後で推移している。仮に70円とした場合の百円銀貨に含まれる銀の価格は 70 × 4.8 × 0.6 = 201.6円となり、額面金額を超える。
【レストア・研磨シリーズ】㉒ 昭和32年発行100円硬貨