太平洋戦争当時、陸軍軍曹として参加していたグアム島の戦いで、一人ジャングルに潜み続けそのまま終戦を知らないままでいた横井庄一さんが、終戦から約28年後の1972(昭和47)年2月2日、無事羽田空港へ帰国。
帰国後、
恥ずかしながら生きながらえて帰って参りました。
と語った横井氏の戦争が、この日 終わりを告げました。
横井庄一
横井 庄一(よこい しょういち、1915年3月31日 – 1997年9月22日)は、日本の陸軍軍人、評論家。最終階級は陸軍軍曹、栄典は勲七等青色桐葉章。
太平洋戦争終結から28年目、アメリカ領グアム島で地元の猟師に発見された残留日本兵として知られる。
生涯
1915年(大正4年)3月31日、愛知県海部郡佐織村(現:愛西市)にて、父:山田庄七と母:大鹿つる(1889年 – 1958年)の間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓:大鹿になる。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡神守村、現:津島市)で大鹿庄一として育てられ、1926年(大正15年)、つるが再婚し横井姓となった。旧制小学校卒業後は約5年間、愛知県豊橋市の洋品店に勤務。1935年(昭和10年)、満20歳のため徴兵検査を受け第一補充兵役(補充兵)に編入される。のちに召集され帝国陸軍に入営、4年間の軍務の後に洋服の仕立て屋を開いた。
1941年(昭和16年)には再召集され、満州を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の歩兵第38連隊に陸軍伍長として配属。同年7月にはアメリカ軍が上陸し(グアムの戦い)、8月に同島で戦死したとされ戦死公報が届けられた。1965年(昭和40年)10月30日の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた勲八等から勲七等青色桐葉章への昇叙者として官報掲載されている。観光用に再現された穴居「Yokoi’s Cave(横井氏の穴)」(グアム島)。横井が実際に使っていた穴居は台風によって壊れた。
当時、グアム守備隊壊滅後も生き残った一部の将兵は山中に撤退しゲリラ戦を行っていたが、1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾によって日本軍の無条件降伏が発令されたことは知らされなかった。横井らはジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の1972年(昭和47年)1月24日、エビやウナギをとるために罠をしかけに行ったところ、現地の鹿の猟をしていた住民に遭遇、同年2月2日に満57歳で日本に帰還した(なお、撤退当初から横井には2人の戦友が居たが、発見の約8年前に台風に巻き込まれ死亡している)。
軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、羽田空港で空港に出迎えに来た、斎藤邦吉厚生大臣に「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰ってまいりました。」と伝えたと言う。またその後の記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりましたけど。」と発言した。これらの言葉をとらえて「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となった。同年2月2日14時から60分間にわたりNHKで放送された報道特別番組『横井庄一さん帰る』は、41.2%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)の高視聴率を記録した。
帰国後は、国立病院医療センターに入院後、愛知県名古屋市中川区富田町に居住した。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。しかし、戦前と帰国後でインフレーションから円の貨幣価値が変わっており(例えば帰国後の100円は、戦前の10円の価値)、全国からの寄付金の管理、横井の財産の管理は全て妻となる幡新美保子が行っていた。その年に美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演。当時の石油ショックに伴い、節約生活について自らの経験を語ったり、『日本沈没』等のブームに関連して災害時のサバイバルについて雑誌等でインタビューを受けた。
横井は、28年に及ぶジャングルでの生活の影響で、火を通さない生魚の刺身に対して警戒心があり、食べられない訳では無いが、あまり喜ばなかったという。
1974年(昭和49年)7月、第10回参議院議員通常選挙(全国区)にも無所属で立候補したが落選。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井の生活は落ち着いたが、ヘルニアや胃がんなどの病気がちとなり、1997年(平成9年)9月22日、心臓発作を起こし死去した。満82歳没。
[昭和47年2月] 中日ニュース No.942_1「横井さん帰国 -ジャングル生活-」