ザ・ビートルズ(The Beatles)の愛称「Fab.4」を、2月4日の「Feb.4」にかけたもの。
「Fab.4」は、「Fabulous Four」(素敵な4人組)の略である。
ビートルズについて
ザ・ビートルズは、イギリス・リヴァプール出身。ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人組で、主に1960年代に活動した世界的に有名なロックバンドである。
ビートルズは、1962年(昭和37年)10月5日にレコードデビュー。1960年代から1970年にかけて活動したイギリス・リヴァプール出身のロックバンド。20世紀を代表する音楽グループである。音楽誌『ローリング・ストーン』による「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第1位にランクされており、経済紙ウォール・ストリート・ジャーナルの統計算出に基づく「史上最も人気のある100のロックバンド」にても1位となっている。グラミー賞を8回受賞し、24回ノミネートしている。
1957年にジョン・レノンがバンド「クオリーメン」を結成し、1960年に「ビートルズ」に改名。1962年10月5日にレコードデビュー。1970年4月10日に事実上解散。”Fab Four”[という愛称もある。
活動期間内に母国イギリスで12作のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作が全英アルバムチャートで週間第1位を獲得した。11作の週間第1位の合計獲得数は162週。年間売り上げ最高アルバム4作と、第1作『プリーズ・プリーズ・ミー』による連続30週第1位はいずれも1960年代の最高数。シングルは22作発売し、その内17作が第1位を獲得。アメリカなど世界各国においても高い販売数を記録し、全世界での総レコード・カセット・CD・ダウンロード・ストリーミングなどの売上総数は6億枚を超えており、ギネス・ワールド・レコーズに最も成功したグループアーティストと認定されている。
1965年10月26日に女王エリザベス2世からMBE勲章を授与されている。1988年にロックの殿堂入り。活動前期においてはアイドルとして「ビートルマニア」と称されるファンを獲得。後期には『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』や『アビイ・ロード』などの名盤と言われるような作品を発表し、より音楽的な面から評価されており、解散から数十年が経過した現在でも、映画作品や記念盤が発表されるなど世界中で根強い人気を誇っている。
1965年リリースの「Yesterday(イエスタデイ)」、1968年リリースの「HEY JUDE(ヘイ・ジュード)」、1970年リリースの「Let It Be(レット・イット・ビー)」は日本の音楽の教科書にも載った。
1966年(昭和41年)6月29日、ビートルズが初来日したことを記念して、6月29日も「ビートルズの日」となっている。
バンド名の由来
「BEATLES」という名称はジョン・レノンとスチュアート・サトクリフが考えた造語である。レノンの証言では、この名前が考案されたのは1960年の4月で、バディ・ホリーのバンド名「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツにあやかり、昆虫の名前で同じように2つの意味を含んでいる言葉としてビートルズを、映画『乱暴者』から思いついた。しかし、バンド名を「ビートルズ」とした頃、クラブ出演を依頼してきたブライアン・キャスは難色を示し、改名を出演条件として「ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー」という名称を提示した。話し合いの上、互いに譲歩して「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」と称する事になったが、その後ロング・ジョンを除いて「シルヴァー・ビートルズ」と称した。ただし、1960年8月から行った最初のハンブルク巡業で出演したクラブ「カイザー・ケラー」の広告には「The Beatles」と記載されている。
ビートルズの歴史
クオリーメン結成からビートルズへの改名まで
1957年3月、レノンがスキッフル・バンド「クオリーメン」を結成する。同年7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会が開催したガーデン・パーティーでのクオリーメンのコンサートをマッカートニーが観た。マッカートニーは共通の友人であるアイヴァン・ボーンに紹介されレノンに面会した。マッカートニーはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」、ジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」、それにリトル・リチャードのメドレーを歌った。マッカートニーが歌詞を完璧に覚えていることに加え、トランペットやピアノも演奏出来ることにレノンは感心してクオリーメンに勧誘し、翌日にマッカートニーは参加すると返答した。
翌1958年2月6日、マッカートニーの紹介でハリスンがクオリーメンのオーディションを受ける。「ローンチー」を完璧に弾きこなした事と、2人よりも多くのコードを知っていた事でレノンに認められ、バンドに加わる。1959年になると他のメンバーは次第に辞めていき、1月にはバンドのメンバーはレノン、マッカートニー、ハリスンの3人だけになる。
同年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」とする。1960年1月、サトクリフがレノンに誘われバンドに加入しベーシストになる。同年4月、レノンとサトクリフがバンド名はビートルズではどうかと提案するが、興行側のブライアン・キャスが改名を要請。交渉してバンド名を「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」とする。
4人のビートルズ誕生
2度目のハンブルク巡業が終わった時点でサトクリフが脱退。アストリットと婚約してハンブルクに残る事になる。マッカートニーがギターからベースに担当を替え、4人組のビートルズが誕生する。
帰国後の8月、レノンの級友だったビル・ハリーが音楽新聞「マージー・ビート」を発刊。レノンの書いた文章が載るようになる。12月10日、リヴァプールでレコード店「NEMS」を営んでいたブライアン・エプスタインがマネージャーになることが決まる。このエプスタインの売り込みにより、1962年1月1日にデッカ・レコードのオーディションを受けるが、不合格となる。
その後もライブ活動を続ける傍ら、エプスタインが各レコード会社に売り込みを続ける。4月から3度目のハンブルク巡業を開始し、11日からスター・クラブで演奏。その前日の4月10日、サトクリフが脳内出血により死去する。6月、EMI傘下のパーロフォン・レーベルから、プロデューサーのジョージ・マーティンによるオーディションが打診される。6月6日に行われたオーディションを受けてデビューが決まった後の8月15日、ベストが解雇される。
直後にスターが加入し、9月からEMIでレコーディング・セッションが行われる。この時はスターの他に、マーティンがオファーしたドラマーのアンディ・ホワイトが参加している。また、エンジニアとして参加したノーマン・スミスは、この後『ラバー・ソウル』までチーフ・エンジニアを務める事になる。
デビュー
1962年10月5日にイギリスにてシングル『ラヴ・ミー・ドゥ』でデビュー。ミュージック・ウィーク誌のトップ50では1962年12月27日付で最高位17位を記録。1963年1月11日にリリースされた英国での2枚目のシングル『プリーズ・プリーズ・ミー』がメロディー・メーカー誌1963年3月2日付けのシングル・トップ50で1位を獲得。
この曲のヒットにより英国で一躍人気グループになり、4月11日にリリースされた3枚目のシングル『フロム・ミー・トゥ・ユー」ではミュージック・ウィーク誌で1963年5月2日付けから6月19日付けまで7週連続1位となる。同作以降は『シー・ラヴズ・ユー』(8月23日発売/1位6週)、『抱きしめたい』(11月29日発売/1位5週)などとシングルが連続して1位を獲得した。
1963年4月26日に英国でのファースト・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』を発売し、5月11日付けでチャート第1位となり、その後、連続30週間、第1位が続いた。連続第1位が続いている中、1963年11月22日にセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』を発売し、12月7日に『プリーズ・プリーズ・ミー』を押しのけて第1位を獲得。1964年5月まで21週間連続1位になる。ビートルズはこの2枚のアルバムで51週間、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの第1位を占有していた。10月13日、当時の人気テレビ番組「サンデイ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム」に出演。およそ1500万人がビートルズの演奏を視聴した。メンバーの発言によれば、これによってビートルズはイギリスでの人気を決定的なものとし、さらに11月4日にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターで開催されたロイヤル・コマンド・パフォーマンス(王室御前コンサート)に出演している。同じ頃、ビートルマニアと称されるファンの一部の行動が社会問題化し始める。
世界進出
しかしこの頃、アメリカではまだヒットを出せていなかった。新曲が出来るたびに、ジョージ・マーティンはアメリカ合衆国側でEMIレコードを販売しているキャピトル・レコードにアメリカでの販売を要請したがキャピトルは拒否。その為ヴィージェイ・レコードやスワン・レコードなどEMIが英国での配給権を取得している小さなレーベルと契約してレコードを販売したが、マッカートニーの発言などによれば、レコード会社が小さい事もあり、大規模な販売は実現しなかった。
その後「ライフ誌」や「ニューズウィーク誌」がビートルズを記事にし、ラジオのディスク・ジョッキーがビートルズのレコードをかけ始めると、ビートルズはアメリカでも次第に知られる様になり、キャピトルの方から「レコード販売させて欲しい」と要請して来た。1964年1月にフランス公演を行う。その最中にアメリカでキャピトル・レコードから発売されたシングル『抱きしめたい』がシングルチャート1位になった。1964年6月,オランダのテレビ番組で
2月にグループとして初めて渡米し、9日にCBSの『エド・サリヴァン・ショー』に出演。マッカートニーの発言によれば視聴者数は7300万人となった。11日にワシントン・コロシアムで初のアメリカ公演を行う。カーネギー・ホールで2回目の公演を行った後、16日にマイアミのドービルホテルで2回目の『エド・サリヴァン・ショー』に出演。この番組の冒頭で司会のサリヴァンは、ビートルズが初出演した9日の放送がアメリカのテレビ史上最高視聴率をあげたとコメントしている。4月4日、アメリカでチャート上位5位までを独占。
6月からはデンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る世界ツアーが開催されるが、スターが扁桃腺炎に患って入院し、代役としてジミー・ニコルが起用される。その後回復したスターはオーストラリアで合流。アデレードのタウン・ホールでの公演の際は、集まった30万人から歓迎を受けている。7月6日、イギリスでリチャード・レスター監督による映画『ハード・デイズ・ナイト』が公開。10日に同名映画のサウンドトラックアルバムを発売し、『ウィズ・ザ・ビートルズ』を抜いて12週間1位を保持していたローリング・ストーンズのファーストアルバムを押しのけて7月25日に第1位になり、そこから21週間連続1位を維持した。
この後、1966年の末まで、イギリスのアルバムチャートはビートルズとローリング・ストーンズが1位争いを繰り広げ、それ以外ではボブ・ディランと『サウンド・オブ・ミュージック』のサウンドトラックの2者のみがチャート争いに参加するという構図になった。またアメリカのビルボードにおいても、アメリカ編集盤『ミート・ザ・ビートルズ』(11週連続)、『ザ・ビートルズ・セカンド・アルバム』(5週連続)、『ハード・デイズ・ナイト』(14週連続)の3作が1位を獲得している。「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上を売り上げ、歴代トップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル『キャント・バイ・ミー・ラヴ』が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。
8月からは第2回アメリカツアーを行い、34日間、24都市で32公演が開催される。なお同年7月に施行された公民権法制定により人種差別が許されなくなったはずのアメリカのフロリダ州ジャクソンヴィルでは、開催される予定のゲイター・ボウルがその後も黒人と白人の人種隔離政策を取っていたが、これを記者会見で尋ねられたマッカートニーがこれを「馬鹿げている」、スターも「全ての人々のために演奏している」と明確に非難し、その上で人種隔離政策を取っているような場所での公演を拒否し、称賛を受けた。なおゲイターボウルでは無事に人種差別が起きないまま公演を終えている。
9月に帰国し、アルバム『ビートルズ・フォー・セール』を録音。10月からはイギリスの27都市で公演を行った。12月4日、イギリスで『ビートルズ・フォー・セール』を発売。日本では1964年2月にシングル『抱きしめたい』でデビュー。日本だけで1965年1月までの約1年間のシングル盤・LP盤を合わせた累計売上は300万枚に達し、日本での発売元である東芝音楽工業からメンバーにゴールデン・レコードが授与された。映画『ヘルプ!』のアメリカ版予告編
1965年2月から映画『ヘルプ!4人はアイドル』の撮影を開始。前作のモノクロのドキュメンタリー・タッチな内容から、任意の事件が発生するストーリーが存在するカラー作品となった。7月に公開され、サウンドトラックアルバム『ヘルプ!』は8月6日にリリースされた。その収録曲のひとつである「イエスタデイ」は、後にビートルズ・ナンバーの中でも際立って有名な曲のひとつとなる。
8月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムで55,600人の観客を集めた野外コンサート開催。10月にはメンバーに対して、外貨獲得に対する貢献でMBE勲章が授与される。
12月にアルバム『ラバー・ソウル』を発売。レノンは「このアルバムはビートルズが音楽的に同時代に影響を与えた最初のアルバム」と述べており、「ドライヴ・マイ・カー」や「ひとりぼっちのあいつ」、シタールを演奏に加えた「ノルウェーの森」など、それまでのビートルズにはなかった作風が登場した。シタールの導入はラヴィ・シャンカルの影響を受けたハリスンの提案である。同月、最後のイギリスツアーを行う。このツアー中に、メンバーがコンサート活動を続けるかどうか話し合っている。
1966年3月、レノンがイギリスでのインタビューでビートルズとキリストを比較する発言を行う。8月になってその発言の一部がアメリカのマスコミに転載され、物議を醸す。4月にアルバム『リボルバー』の録音を開始。この作品からノーマン・スミスに代わってアシスタント・エンジニアだったジェフ・エメリックがチーフ・エンジニアに就任。
6月24日から7月4日まで西ドイツと日本、フィリピンを回る最後の世界ツアーを行う。8月には最後のアメリカ公演を行ない、29日のキャンドルスティック・パークで終了した。同月5日、イギリスで『リボルバー』を発売。
レコーディング・アーティストへの移行
これまでのビートルズの世界各国を巡るコンサート活動は、1966年8月29日のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでのコンサートを以て終了した。
1965年の段階でスターやハリスンはスケジュールの過酷さに不満が募ってきていたと発言しており、メンバーの体調面や私生活の破綻が懸念されるようになっていく。加えてメンバーがコンサート自体の出来に不満を感じ始める様になっていた。当時は演奏者が自分やバンドの演奏音を確認する為のモニターシステムが備わっておらず、PAも満足なものが無かったため、観客に演奏が届きにくかった。1965年8月15日のシェイ・スタジアム公演を含むアメリカツアーでは、スタジアム公演の為に特注の100ワットのアンプが用意されたが、それ以前は30ワットを使っている。こういった機材面の問題に加え、観客が音楽を聴いていない事もメンバーは不満に感じ始めており特にレノンはこの状況について、ビートルズのコンサートは音楽とは関係無いと発言している。
さらにツアーの続行はメンバーや関係者の身の安全にも影響を及ぼした。日本公演では、武道館での演奏への一部の反発や、ファンの殺到による危険防止から大掛かりな身辺警護が実施され、日中にほとんどホテルから外出できなかった。さらにその後のフィリピンでの出来事や8月のアメリカでの騒動では、人命をも脅かす事件が連続して起こっている。こうした一連の出来事によってメンバーたちの鬱憤が増大の一途を辿り、コンサート活動の終了に至った。エプスタインはフィリピン公演の後に立ち寄ったインドでハリスンに「来年もツアーをやるの?」と質問され、「1967年はツアーを行わない」と回答している。さらに1967年8月にエプスタインが急死してマネージメントの構造自体が変質したことも、公演活動の再開を遠ざけた。
こうした反面、ビートルズはスタジオでの創作活動に意欲を振り向け始め、コンサートでは再現困難な作品も作り始めていた。すでに1965年の「ひとりぼっちのあいつ」や1966年の「ペイパーバック・ライター」など、ボーカル・ハーモニーのライブ再現が難しい曲が発表されていたが、コンサート活動の終了後、初めて発売した1967年のオリジナル・アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は制作に半年を費やし、コンサートでの再現を想定していないスタジオワークの技術が多く使用された。
サージェント・ペパーズからアビイ・ロードまで
1966年9月、レノンは映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』の撮影のためスペインに向かい、この撮影の休憩時間を使って「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が書かれた。ほぼ同時期にハリスンはインド音楽の研究のためインドに行き、ラヴィ・シャンカルに対面している。11月、ジョン・ダンバーの招待[81]でレノンがインディカ・ギャラリーに赴き、オノ・ヨーコに出会う。
同月、ツアー終了後初めてアビー・ロード・スタジオに集合し「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」「ペニー・レイン」などを録音。これらの曲は当初、次のアルバムに収録する予定だったが、キャピトル側がシングルの早期発売を要請してきたため、この内の2曲を先行してシングル発売する事になった。
1967年2月、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」が両A面シングルとして発売。レコーディングは引き続き行われ、6月1日にはイギリスでアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が発売される。このアルバムは当時のポピュラー音楽界の枠を超えて多大な文化的影響を与えたと言われている。同月25日、3億人が視聴した世界同時衛星中継番組『われらの世界』に出演し、「愛こそはすべて」を披露する。同曲は7月にシングル発売された。「マジカル・ミステリー・ツアー」撮影時(1967年)
8月にハリスンがサンフランシスコに行き、ヘイト・アシュベリーでヒッピーらと交流を持つが、ドラッグ・カルチャーに対して否定的な結論に至り、逆にシタールの習得の際に触れたインドの瞑想に深く関る様になる。このハリスンの発案により、8月24日、妻の出産で出席出来なかったスターを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで行われたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのレクチャーに参加。続けてウェールズのバンガーでのセミナーに参加する。しかし27日にエプスタインが急死したため、4人はセミナーを辞去してロンドンに戻る。エプスタインの死によってビートルズのマネージメントの不備が明らかになり、アップル・コア設立が企図される。
9月からテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』の撮影が行われ、年末にBBCで放映される。同作のサウンドトラックは、11月にアメリカでコンピレーション形式のLP盤、12月にイギリスでEP盤が発売される。
1968年1月、ハリスンがインドのボンベイで『不思議の壁』を録音。同名映画のサウンドトラックで11月に発売された。その後メンバー全員でリシケーシュのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義に参加。その間にニール・アスピノールとデレク・テイラーの主導でアップル・コアの設立準備を行う。5月、ニューヨークでレノンとマッカートニーがアップル・コア設立の記者会見を行う。7月、アニメーション映画『イエロー・サブマリン』を公開。
8月、レノンと妻のシンシアの関係がオノ・ヨーコにより険悪になったことから、夫妻の息子であるジュリアンにマッカートニーが伝えたいと思ったメッセージが元になったシングル『ヘイ・ジュード』が発売される。11月、初の2枚組アルバム『ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム)』が発売。
1969年1月、トゥイッケナム・スタジオで、レコーディングとドキュメンタリー映画の撮影を兼ねたゲット・バック・セッションが始まる。だがレコーディングの過程でメンバー間の不和が増大。マッカートニーとハリスンが衝突し、ハリスンが一時離脱する。ミーティングの上でハリスンは復帰を承諾するものの、トゥイッケナムでの続行に不満が提起され、サビル・ロウに新しく作られたスタジオに移動する。ハリスンの提案でビリー・プレストンをセッション・プレイヤーとして招聘してセッションを再開したが、結局この時点ではアルバムリリースには至らず、次回作と発売順が入れ替わる結果となる。1月30日、映画のラストで使用された屋上でのライヴ・パフォーマンス(ルーフトップ・コンサート)を敢行。
その後、アップル・コアの財政が危機に陥り、マネージャーの決定を巡ってメンバー間で対立が起こる。マッカートニーは恋人のリンダ・イーストマンの父リー・イーストマンを推したが、他の3人はアラン・クレインを推した。3月12日にマッカートニーがリンダと結婚。同日、ハリスンの家を警察がマリファナ所持の容疑で捜索。同月20日、レノンはかねてから愛人関係にあったオノとジブラルタルで結婚式を挙げる。
4月、アビー・ロード・スタジオにてアルバム『アビイ・ロード』の録音を開始(発売は9月)。8月8日午前10時頃に『アビイ・ロード』のディスクジャケットの写真撮影が行われた。当日は暑かったためマッカートニーはスーツにサンダル履きという姿で現場に出向いており、実際にサンダルを履いて横断歩道を渡るカットも撮影された。22日、レノンの新しい私邸にて全員が揃った最後の写真撮影が行われた。
9月、レノンとオノが結成したプラスティック・オノ・バンドがカナダのトロントでコンサートを開催。ハリスンはメンバーに誘われたが辞退し、エリック・クラプトンがギタリストとして参加した。レノンが帰英した後の9月末、アップルで今後の活動に関する会議が行われた「小規模なギグからコンサートを再開したい」というマッカートニーの提案にレノンが「お前はアホか。俺は辞める」と述べた。しかしアラン・クレインはレノンの脱退意向を公表しなかった。1970年4月10日にマッカートニーがビートルズ脱退を表明し、ビートルズは事実上解散となった。
4月17日にマッカートニーはソロ・アルバム『マッカートニー』を発売。5月8日にフィル・スペクターのプロデュースでゲット・バック・セッションでの録音をまとめたアルバム『レット・イット・ビー』が発売される。
The Beatles – She Loves You [Come To Town, ABC Cinema, Manchester, United Kingdom]
The Beatles – I Want To Hold Your Hand – Performed Live On The Ed Sullivan Show 2/9/64