1957年(昭和32年)の1月29日、南極大陸に「昭和基地」が開設された。
地球科学者・永田武(ながた たけし、1913~1991年)隊長の指揮する南極観測隊が東オングル島に上陸し、本格的な観測が始まった。南極観測船「宗谷」、飛行機やヘリコプターを使っての調査が行われた。
この年から翌年にかけては「国際地球観測年」で、日本を始め12ヵ国による観測網が敷かれた。タロとジロの生存(記念日「タロとジロの日」)、宗谷が氷に閉じ込められてソ連船に助けられるなど、多くのドラマがあった。
「昭和基地」の名称は建設された時代の元号「昭和」にちなむ。南極には日本の観測基地として、昭和基地のほかに、みずほ基地、あすか基地、ドームふじ基地がある。関連する記念日として、4月6日は「北極の日」、12月14日は「南極の日」となっている。
昭和基地
昭和基地は天体・気象・地球科学・生物学の観測を行う施設である。施設は大小60以上の棟からなり、3階建ての管理棟のほか、居住棟、発電棟、汚水処理棟、環境科学棟、観測棟、情報処理棟、衛星受信棟、焼却炉棟、電離層棟、地学棟、ラジオゾンデを打ち上げる放球棟がある。このほかの施設として、大型受信アンテナ、燃料タンク、ヘリポート、貯水用の荒金ダム、太陽電池施設、風力発電施設などがある。また、51次隊から建設が始まった自然エネルギーを研究するための棟は54次観測隊で完成した。1,000キロ離れた南極大陸内にドームふじ基地がある。
余暇(通常業務が休みになる南極時間の土日や平日の業務終了後、および臨時で日本時間のこどもの日)を利用して隊員によるアマチュア局(8J1RL)の運用が行われている。多くの建物は木造プレハブ構造で、大手住宅メーカーのミサワホームが製造したものが使用されている。医務室、管理棟、厨房、食堂、通信室、公衆電話室、図書室、娯楽室などは管理棟内にある。2基のディーゼル発電機が置かれ、交互に運転されている。発電機の切り替え作業は、施設内のほとんどの電源がカットされた状態で実施される一大イベントとなっている。昭和基地内分室の風景印
郵政民営化までは郵便局もあり、現在は日本郵便銀座郵便局昭和基地内分室が置かれ、日本国内と同料金で手紙やハガキを日本本土とやり取りができるが、日本および南極への配送は越冬隊が帰還する際の年1回のみである。かつては昭和基地内郵便局の郵便番号として100-70(国立極地研究所扱い。枝番70はいったん閉鎖された基地の業務が再開された1970年にちなむ)が当てられていたが、現在は特に定められていない。「船内郵便局」を参照ブリザードに見舞われた昭和基地(2011年1月撮影)
主要な建物はシェルタータイプの連絡通路で接続され、荒天時でも移動できるよう配慮されているが、夏季滞在隊員用の宿舎などには連絡通路がないために、ブリザード発生時は建物から出入りできなくなる。そのため連絡通路で接続されていない建物には、簡易トイレや非常用食料の備蓄など、数日間そこで過ごせるような対策が講じられている。また、連絡通路で接続されていないが、インテルサット衛星設備など停止が許されない設備に故障などの障害が発生した際は、ブリザード発生中でも隊員が設備に赴き処置を施す必要がある。これらの設備には基地建物から誘導ロープが張られており、安全帯を締め命綱を誘導ロープにつないで移動する。
観測資材や食糧・燃料などの物資は、南極観測船によって運ばれる。海面の結氷状況により、基地付近に観測船の接岸が可能なときは、雪上車での横持ち輸送や、給油パイプ接続による燃料流送で基地への物資搬入が可能であるが、接岸困難なときは、沖合いに停泊した観測船からヘリコプターを使用した空輸に頼ることとなる。2009年(平成21年)の第51次南極観測隊および越冬隊から運用開始した観測船「しらせ(2代)」では、荷役作業の効率化のため物資の搭載がコンテナ化されており、これに対応して2007 – 2008年に、基地内にコンテナヤードが整備された。
基地内で通貨は不要であり、食事や飲み物はアルコール類を含めてすべて無料である。変化に乏しくマンネリ化しやすい基地生活のため、お花見会(基地内に手作りの桜の造花を飾る)やフルコースディナー会など、趣向を凝らしたイベントも開催される。生鮮食料品や冷凍食料品は、調理担当の隊員が賞味・消費期限や鮮度を管理・運用しているのに対し、間食類(チョコレートなど)の賞味期限管理はやや大雑把であり、賞味期限が過ぎた間食類が、隊員の自己責任で配布されることもあるとされる。
昭和基地の歴史
昭和基地の歴史は、ほぼそのまま日本の南極観測の歴史でもある。
1951年(昭和26年)に国際地球観測年が提唱されると、日本はこれに参加を希望した。当初、赤道観測を行う予定であったが、予定地の領有権を持つアメリカの許可が出ず、1955年2月、南極観測に切り替え、12か国による共同南極観測に参加した。本来は2次で終了する予定であった。準備期間が短く、観測船「宗谷」も旧船を急ぎ改造したものであった。観測隊出発まで基地の場所は決まらず、決定は隊長に一任されていた。
1956年に出発した南極観測船「宗谷」で、永田武隊長率いる第1次南極観測隊53名が東オングル島に到着。1957年1月29日に永田らが上陸、昭和基地と命名する。1月31日の正式決定のあと2月1日から建設が始まる。2月8日、永田はここで一夜を明かした。永田らは2月15日に離岸する。このとき完成していた棟は4つで、うち1つは発電棟だった。隊員のうち西堀栄三郎副隊長兼越冬隊長以下11名が越冬した。1次隊は観測器具が凍りつくなどの極度の困難が続いた。このときに輸送などで活躍したのが、樺太犬による犬ぞりであった。一方、2月15日に離岸した「宗谷」は分厚い氷に完全に閉じ込められ、28日に当時の最新鋭艦だった旧ソ連の「オビ」号に救出された。
1958年、1次隊に続けて隊長となった永田率いる第2次観測隊を乗せた「宗谷」は深い岩氷に挟まれ、接岸を断念。2月14日、1次隊越冬隊の全隊員は飛行機とヘリコプターで脱出した。犬のうち15頭はその後の活動のため残された。しかし天候は回復せず、2月24日正午(一説では13時)、永田は越冬不成立を宣言。犬は置き去りにされた。当初2次で終了する予定であった観測隊が、2次観測隊の不成立により3次まで延長され、1年後に第3次越冬隊が昭和基地に到着すると、犬のうちタロとジロの2頭が昭和基地で生き残っているのが発見された。この逸話は映画「南極物語」になり、大ヒットしている。
1959年1月から3月までの間、「宗谷」がプリンスハラルドに接岸の期間中、「宗谷船内郵便局昭和基地分室」が基地内に置かれた。
1960年10月10日、基地内でそりを固定しようとしていた第4次越冬隊員の福島紳(1930年 – 1960年)が遭難。同10月17日死亡が確定される。遭難地点(S69°、E39°35′)には越冬隊によってケルンが建てられた。このケルンは福島ケルンと呼ばれ、1972年に環境保護に関する南極条約議定書(付属書V第八条)に基づき南極の史跡遺産に指定され、日本では南極史跡記念物に定められている。福島隊員の遺体は1968年に、基地より約4キロ離れた西オングル島で発見された。
当初2次で終了するはずだった南極観測隊は、結局5次まで延長され、さらに再延長を求める声が高まったが、「宗谷」の老朽化により、1961年出発、1962年帰還の第6次観測隊(越冬はせず)により日本の南極観測は中断、昭和基地は再び閉鎖された(1962年2月8日 – 1965年11月20日)。
1965年に竣工した南極観測船「ふじ」による、第7次観測隊および越冬隊から再開、1983年(昭和58年)の第25次観測隊および越冬隊から「しらせ(初代)」に変わった。
観測船「宗谷」「ふじ」「しらせ(初代)」には船内郵便局があり、それぞれ独自の風景印を使用していた。
1973年(昭和48年)9月29日に昭和基地は国立極地研究所の観測施設となった。
1978年(昭和53年)11月25日、NHKが職員11名を派遣し、基地内に南極放送局を開設。1979年(昭和54年)1月28日から2月3日にかけて世界初の南極からの衛星中継を実施した。その24年後の2003年(平成15年)1月から2004年1月2日まで、基地内にNHK南極ハイビジョン放送センターを開設。職員5名が2002年12月から越冬してセンターの建設と日本へ放送の送信を行っていたが、2004年3月に帰国した。替わって、2004年1月1日から朝日新聞の南極支局が開設された。
砕氷艦「しらせ」の老朽化により、観測活動の継続に支障が懸念されたが、2006年にユニバーサル造船舞鶴事業所において、後継艦が建造された(2007年起工、2009年5月完成)。艦名は先代に引き続き「しらせ(2代)」となり、2009年(平成21年)の第51次南極観測隊および越冬隊から運用開始した。
【公式】#8 昭和基地ツアー Episode01 基地紹介
皇帝ペンギンが昭和基地にやってきた(前編)