1986(昭和61)年10月16日、登山家で冒険家のラインホルト・メスナー氏が、ヒマラヤ山脈のエベレスト南に連なる標高8,516mの山
ローツェ
の登頂に成功したことで、人類史上初となる
世界8,000m峰全14座完全登頂
を達成しました。
地上8,000mにもなると極寒気温のみならず無酸素状態になることから、登頂には酸素ボンベの着用など諸々の装備を含め、過酷以上の過酷を極めることから、
デスゾーン
とも呼ばれております。
が、地球上最も高い山々への登頂は登山家の到達点でありロマンとされており、多くの登山家が挑んでおります。
メスナー氏は過去にクレバスに転落する大事故や、何度となく重度の凍傷を経験するも、8,000m峰全14座の完全登頂を成功させました。
また、登山以外にも
- グリーンランド走破
- 南極大陸走破
- ゴビ砂漠横断
- タクラマカン砂漠横断
といった冒険家として輝かしい実績を残しております。
ちなみに、2015(平成27)年時点で8,000m峰全14座の登頂に成功したのは全世界で33名だけで、竹内洋岳氏が唯一の日本人成功者となっております。
世界8,000m峰14座地球上にある8,000m峰は、その全てがヒマラヤ山脈〜カラコルム山脈に位置しております。
世界8,000m峰14座
- エベレスト
:8,848m - K2
:8,611m - カンチェンジュンガ
:8,586m - ローツェ
:8,516m - マカルー
:8,485m - チョ・オユー
:8,188m - ダウラギリ
:8,167m - マナスル
:8,163m - ナンガ・パルバット
:8,126m - アンナプルナ
:8,091m - ガッシャーブルムI峰
:8,080m - ブロード・ピーク
:8,051m - ガッシャーブルムⅡ峰
:8,034m - シシャパンマ
:8,027m
ラインホルト・メスナー
イタリア北部、トレンティーノ=アルト・アディジェ州ボルツァーノ自治県(南チロル)のブレッサノーネ(ドイツ語名: ブリクセン)で生まれ、近郊のフーネス(ドイツ語名: フィルネス)で成長する。父親は教師で、7人の兄弟と1人の姉妹と共に大家族で育った。南チロルはドイツ語圏で、メスナーはドイツ語とイタリア語の母語話者であり、英語も流暢である。
十代の頃から東アルプスで500回を超える登攀をこなし、1966年、22歳のときにグランド・ジョラス北壁(ウォーカー側稜)を攻略。1969年も三大北壁の中でも最も難易度が高いとされるアイガー北壁を当時の世界最短記録で攻略。5年後の1974年にも再びアイガーを攻略し、ペーター・ハーベラーとともに自身が持つ世界最短登頂記録を更新した。
ナンガ・パルバット、弟ギュンターの喪失
1970年、ナンガ・パルバットのルパール壁初登攀を目指す遠征隊に、弟のギュンターと共に参加した。登攀の最終段階で天候が悪化するという予報のため、ラインホルトのみが最終キャンプから単独アタックを敢行することとなった。弟のギュンターは下山用の固定ロープを設置する役割だったが独断で兄の後を追い、合流した2人はルパール壁の初登攀に成功した。しかし単独登攀のつもりだったためザイルを持たず、ギュンターが体力を激しく消耗したため下山が困難となる。そのためルパール壁の反対側にある、比較的容易に下降できるディアミール壁からの下山を試みる。テントもシュラフもない状態でビバークを重ね、瀕死の状態で下山したが、ラインホルトは最後に弟とはぐれてしまい、見失ってしまう(このころ遠征隊はメスナー兄弟の生存を絶望視し、キャンプの撤収を開始していた)。重度の凍傷に罹り、歩行も困難な状態で動けなくなったところを地元住民にかついで運ばれ、偶然通りかかったパキスタン軍のジープに救われ、帰路についていた遠征隊となんとか遭遇できたものの、弟のギュンターのほうはついに戻ってこなかった。この登山でラインホルトは重度の凍傷に罹り、本国に帰国した後、足の指を6本切断することになった。また兄として弟の死の責任も問われ、重い十字架を背負うこととなる(その後、ラインホルトは弟ギュンターの遺体を捜すためにナンガ・パルバットへ10回行くことになる)。 メスナー兄弟のルパール壁登攀や遭難の経緯は、後に『ヒマラヤ 運命の山(ドイツ語版)』として映画化された(原題「ナンガ・パルバット」)。
数々の輝かしい登山と冒険
この悲劇的なナンガ・パルバット登頂以降、17年の歳月をかけて1986年には人類史上初となる8000メートル峰全14座完全登頂に成功した。その間に1975年に、ガッシャーブルムI峰でハーベラーとのコンビで世界で初めて8000メートル峰をアルパインスタイルで登頂。1978年、ナンガ・パルバットで世界で初めて8000メートル峰をベースキャンプから単独・アルパインスタイルで登頂。さらに同年、ハーベラーとのコンビで人類初のエベレスト無酸素登頂に成功。2年後の1980年には途中、一度クレバスに転落する事故を乗り越えてエベレスト無酸素単独登頂の偉業を成し遂げた。1982年にはカンチェンジュンガ、ガッシャーブルムII峰、ブロード・ピークという8000メートル峰を1年の間に次々と登頂。チョ・オユーにおける同年の厳冬期登頂には失敗したものの、翌年春に再挑戦し頂上に到達している。1984年には世界初のガッシャーブルムI&II峰縦走に成功した。
また、登山以外でも、グリーンランド、南極大陸(1990年に92日間をかけ走破)、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠の横断を成し遂げている。
永年の登山への貢献により、2001年にはイギリス王立地理学会の金メダル(パトロンズ・メダル)を、2018年にはアストゥリアス皇太子賞スポーツ部門を受賞した。
8000メートル峰14座の登頂記録
全て無酸素で登頂。
- 1970年 ナンガ・パルバット (8125m)
- 1972年 マナスル (8156m)
- 1975年 ガッシャーブルムI峰 (8068m)
- 1978年 エベレスト(8848m)、ナンガ・パルバット(単独)
- 1979年 K2 (8611m)
- 1980年 チョモランマ(エベレスト)(単独)
- 1981年 シシャパンマ (8013m)
- 1982年 カンチェンジュンガ (8586m)、ガッシャーブルムII峰 (8035m)、ブロード・ピーク (8047m)
- 1983年 チョ・オユー (8201m)
- 1984年 ガッシャーブルムI峰 (8068m)、 ガッシャーブルムII峰 (8035m) ベースキャンプに帰還せず縦走による連続登頂
- 1985年 アンナプルナI峰 (8091m)、ダウラギリ (8167m)
- 1986年 マカルー (8462m)、ローツェ (8516m)
Reinhold Messner, Academy Class of 1987, Full Interview
~ラインホルト・メスナーの名言~
FACE TO FACE | 登山よ永遠に、アイガーよ永遠に | by TRILOGY