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10月25日今日は何の日?:島原の乱の日

投稿日:

天草四郎(益田時貞)

寛永14年10月25日、日本の歴史上最大の一揆と目されている

島原の乱

が勃発しました。

島原の乱の経緯

当時、圧政や過酷な重税に苦しんでいた島原藩(現:長崎県)の領民たちと、迫害を受けていたキリシタンたちが、溜め込んでいた憤懣を爆発させるかたちで大紛争に発展したもので、寛永14年10月25日を境にして一揆は約半年間にも及んでおります。領民やキリシタンの間で圧倒的なカリスマ性を発揮し、支持を得ていた

天草四郎時貞を中心として原城址に籠城し、徹底抗戦の構えを貫いたことが長期化の背景にあり、事態を重く見た幕府は島原へ軍を派遣し徹底弾圧を敢行。

結果的に一揆軍は力尽き、幕府軍に鎮圧され籠城した一揆軍の約37,000人ほぼ全員が惨殺される最期となりました…。

徹底抗戦をされた根本的な原因のひとつに

キリスト教の教えが普及し過ぎたことにあると考えた幕府は、島原の乱弾圧後にキリシタン排除を気運を強めていくことに。以後日本各地で行われていた外国船との交易を追放・制限するなどいわゆる

鎖国

が断行されていく時流となっていきました。

 

島原の乱の勃発

島原の一揆

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てていた。肥後天草でも小西行長・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原の乱の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を一揆軍の総大将とし決起することを決めた。寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害、ここに島原の乱が勃発する。

この一揆は、島原半島の雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化には成功し、組織化された集落の領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたが、これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化には成功しなかった。反乱に反対する北目の領民の指導者は、雲仙地溝帯の断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しようとして迫る反乱軍の追い落としに成功したので、乱に巻き込まれずに済んだ(南目の集落の中には参加しなかった集落もあり、また北目の集落から一揆に参加したところもある)。

天草の一揆、島原と合流、原城篭城

天草四郎が使ったとされる旗印

数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退。有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるが島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれる。一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。

 

原城の籠城戦

原城包囲の図

乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌、副使として石谷貞清を派遣した。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた。 城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌は大名としては禄が小さく、大大名の多い九州の諸侯はこれに従わなかったため、軍としての統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。『常山紀談』には重昌が派遣される際、柳生宗矩が”小藩主(重昌の領地である深溝藩の石高は1万5,000石である)である重昌を総大将にすれば九州大名の統制がとれず討伐は失敗する”と考えて反対したという話がある。

事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱、副将格として戸田氏鉄らの派遣を決定した。功を奪われることを恐れ、焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を行うが策もない強引な突撃であり、連携不足もあって都合4,000人ともいわれる損害を出し、総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死し、攻撃は失敗に終わった。この報せに接した幕府は1月10日(2月24日)、増援として水野勝成と小笠原忠真に出陣を命じる。

新たに着陣した信綱率いる、九州諸侯の増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がった討伐軍は、陸と海から原城を完全包囲した。大目付・中根正盛は、与力(諜報員)を派遣して反乱軍の動きを詳細に調べさせ、信綱配下の望月与右衛門ら甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認した。これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。

1月6日、長崎奉行の依頼を受けたオランダ商館長クーケバッケルは、船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍に提供し、さらにデ・ライプ号を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行った。しかし砲撃の目立った効果も見られず、また細川忠利ら諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。しかし信綱は、ポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との批判は的外れであると反論している。実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を削ぐ効果はあったと考えられている。

このオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の援助について、当時オランダとポルトガルは、オランダ・ポルトガル戦争(1603〜1663)を戦っており、日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあったとされる。また、中世研究家の服部英雄は一揆勢力がポルトガル(カトリック国)と結びつき、幕府側はオランダ(プロテスタント国)と結びついた。このあとの鎖国でのポルトガル排除はオランダとの軍事同盟の結果と考察している。

討伐軍は密かに使者や矢文を原城内に送り、キリシタンでなく強制的に一揆に参加させられた者は助命する旨を伝えて一揆軍に投降を呼びかけたが、成功しなかった。更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったが、一揆軍はこれを拒否している。一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて海藻を兵糧の足しにした。松平信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知ったという。

2月24日(4月8日)、信綱の陣中に諸将が集まり軍議が行われ、この席で戸田氏鉄は兵糧攻めの継続を、水野勝成は総攻撃を主張するが、乱が長期間鎮圧されないと幕府の威信に関わることもあり、信綱は総攻撃を行うことを決定した。その後、雨天が続き総攻撃は2月28日に延期されるが、鍋島勝茂の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始され、諸大名が続々と攻撃を開始した。兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された。『常山紀談』によると、このとき本丸への一番乗りを水野勝成嫡子の水野勝俊と有馬直純嫡子有馬康純が争ったという。

幕府の反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。 わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。また、これ以降一国一城令によって各地で廃城となった城郭を反乱の拠点として使えないようにするため、破壊がいっそう進むことになった。

全期間を通じての幕府軍の総勢と籠城軍の概要は以下の通りである。なお、攻勢・守勢双方にかなりの数の浪人が参加していた為、兵力は石高から考えた各大名固有の兵数を上回っている。天草三氏(天草・志岐・栖本)のうち取り潰された天草・志岐の両家の浪人が指導層となり一揆軍に参加(栖本家は細川家に仕官しており、細川家臣として幕府軍に参加)。また幕府軍にも日本全国から浪人が参加している。また、島原及び天草地方の全ての住民が一揆に参加したわけではなく、幕府軍に加わったものも少なくなかった。

幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女37,000人は全員が死亡し、生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人であったと言われる。

ただし、幕府軍の総攻撃の前に多くの投降者や一揆からの脱出者が出たとする説もある。城に籠城した者は全員がキリシタンの百姓だったわけではなく、キリシタンでないにも関わらず強制的に一揆に参加させられた百姓や、或いは戦火から逃れるために一揆に参加した百姓も少なくなかった。一揆からの投降者が助命された例や、一揆に参加させられた百姓の中に、隙を見て一揆から脱走した例、正月晦日の水汲みの口実で投降した例などがあることが各種史料から確認されている。そして、幕府軍の総攻撃の前には、原城の断崖絶壁を海側に降りて脱出する一揆勢の目撃情報があったとされ、また、幕府軍の総攻撃の際にも、一揆勢の中に脱出に成功した者や、殺されずに捕縛された者も決して少なくはなかったとする見方もある。幕府軍への投降者の数は、1万人以上と推測する説があるが、記録がなく実数は不明である。

 

 

世界文化遺産 002 第2回「潜伏のきっかけ…島原の乱」JP

 

 

 

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