現地時間1963(昭和38)年11月22日(金)午後12時30分、テキサス州を遊説していたアメリカ第35代ジョン・F・ケネディ大統領が、ダラス市内のパレード中に銃撃され死亡した
ケネディ大統領暗殺事件
が発生。
今なお謎多き事件
公表された内容によると、銃撃には一発の弾丸しか用いられていなかった
とされるも、
- 体内を貫通した複数の軌道
- 被弾位置
- 射角
などの説明に無理があることに加えて、当日の
- 警備の少なさ
- 突然の予定進路変更
- 車の進行速度
- 沿道の観衆の配置
など不自然とされる点も多く、後にザプルーダー・フィルム
と呼ばれる、ケネディ大統領が被弾することが事前に分かっていたような撮影位置や画角などの映像から、陰謀説が後を絶たない事件でもあります。
ちなみに、事件の調査内容をまとめた
ウォーレン報告書
は、該当関係者の多くがこの世を去っているだろう
との理由から2039年に公表予定も、資料の多くは不自然にもすでに紛失されているのだとか。
テキサス遊説の背景
ケネディ大統領が1963年11月下旬のこの時期にテキサス州を遊説することにしたのは以下の3つの理由からであった。
- 翌1964年11月の大統領選挙に向けて民主党選挙戦資金の寄付を求めるため。
- その大統領選挙での再選へ向けての選挙活動の開始。南部諸州は以前は「民主党の金城湯池」と言われる牙城であったが、前年とこの年の夏にアフリカ系住民に対する人種差別について強硬な姿勢を取ったケネディに対する反感が渦巻き、翌年の大統領選挙で共和党から立候補が確実視されていた超保守派のゴールドウォーター に南部諸州を全て勝たれるとの予想が秋頃から民主党にはあった。そこで南部の中で唯一民主党が勝利する可能性があるのがテキサス州であった。選挙人数も南部で最大の州であり、ジョンソン副大統領の地元でもあり、最初のテコ入れをテキサス州にして、最低でもテキサスだけは確保するつもりであった。
- 前回1960年の大統領選挙では、ジョンソンの地元であるのにケネディ-ジョンソン組がテキサス州では辛うじて勝っただけで(ダラスでは共和党に敗北した)、しかもテキサス州の民主党が保守的なコナリー知事とヤーボロー上院議員(ケネディと親しい)が対立しており、このテキサスの民主党有力メンバーとの関係を修復させる狙いもあった。
行程は11月21日(木)にホワイトハウスを発ち、大統領専用機でサンアントニオからヒューストンを経てフォートワースに夜到着し、翌11月22日金曜日の朝にフォートワースからダラス、最後はオースティンに行き、そしてオースティン郊外のジョンソン牧場でジョンソン副大統領夫妻と週末を過ごす予定であった。
ダラス到着
1963年11月22日金曜日の朝にフォートワースでの朝食会に出席して、終了後大統領専用機でケネディ大統領夫妻はダラスに向かった。現地時間11時40分にダラス・ラブフィールド空港に到着した。「ダラス・トレードセンター」で昼食会と大統領のスピーチが予定されていたために、自動車パレードはダラス・ラブフィールド空港からダラス市内を通って、ディーリー・プラザを含むダウンタウンを通過してダラス・トレードセンターに向かう計画であった。
11時50分にケネディ大統領夫妻とコナリー知事夫妻はラブフィールド空港から、フェアチャイルドC123輸送機によりワシントンD.C.から運ばれた1961年式のリンカーン・コンチネンタルをオープントップに改造したパレード専用のリムジンに乗車して空港を出発した。
リンカーン・コンチネンタルには最後列右側にケネディ、左側に妻のジャクリーン・ケネディ、その前列の右側にテキサス州知事ジョン・コナリー、左側にその妻アイダネル(通称ネリー)・コナリー、その前の運転席(左側)にホワイトハウスシークレット・サービスのビル・グリアー、その助手席(右側)に同じシークレット・サービスのロイ・ケラーマンが乗車した。
この時、「バブルトップ」と呼ばれる透明な防弾カバーをつけることを事前にダラス市警察本部とシークレット・サービスから提案されたが、屋根をつけるかどうかはその日の天気次第とされていた。当日のダラスの天気予報は終日雨の予報であったが到着の1時間前から天候は回復し、空は晴れあがり結局リムジンにバブルトップが付けられることはなかった。
市内パレード
ラブフィールド空港からのパレードには合計12台の車が参加して、車列の先頭が先導する白バイで次にシークレット・サービスだけが乗った車で、その次が大統領夫妻が乗ったリンカーン・コンチネンタル、その後ろに再びシークレット・サービスが乗った車、そしてその次にジョンソン副大統領とレディバード夫人が乗った車を中心にパレードの車列は11時50分にラブフィールド空港を出発し、ダラス市内を時速16キロメートル(時速10マイル)前後のスピードを保ったまま、ダラス・トレードセンターに向かってゆっくりと進んだ。
ダラスの至る所、ルートに沿ってケネディに批判的ないくつかの団体がプラカードを掲示しビラを配布した。手製の抗議サインは車列の見物人達によって高く掲げられた。しかし車列は、ケネディが数人の修道女および数人の児童と握手するために2度止まる以外はほとんど何事もなくその全ルートを通過した。大通りに入ったリムジンの前に1人の男性が走り寄ったが、シークレット・サービスによって地面へ押し倒され車列から遠ざけられた。しかし全体としては歓迎ムードで、後にコナリー知事は「心からの温かさ、理解、敬意を示す大変な数の市民が繰り出していた。大統領もジャクリーン夫人も心から喜んでいる様子であった。」と語っている。ネリー夫人は大統領の方を振り返り「これでもうダラスがあなたを歓迎していないって、おっしゃらないでしょうね」と言うと大統領は「もちろん。考えていませんとも」と答えている。
12時30分にケネディのリムジンはメイン通りからディーリー・プラザに入って右折し、ヒューストン通りをテキサス教科書倉庫ビルの正面にゆっくり進んだ。そして次にリムジンはゆっくりと左折して、エルム通りに入り、教科書倉庫ビルからわずか20メートル離れた位置に達した。
狙撃
リンカーン・コンチネンタルが教科書倉庫ビルの前を通過した時、およそ6 – 9秒の間にケネディは狙撃された。狙撃の間リムジンの速度は時速14キロメートル(時速9マイル)から時速21キロメートル(時速13マイル)であった。ウォーレン委員会はその後、3発の銃弾の内1発は車列を外れ、1発がケネディの頸部に命中、貫通のうえコナリーに被弾、最後の1発がケネディの頭部に命中し、致命傷を与えたと結論を下した。ほぼ全ての者がケネディに少なくとも2発の銃弾が命中し、頭部への被弾で死亡したことを認めている。
犯人が最初の第1発目の発射後、群衆から様々な反応が起こった。多くの者は後にクラッカーかアフターファイアーが鳴ったと思ったと証言している。リムジンに乗っていた大統領夫妻や知事夫妻は一斉に右方向を向き、大統領は喉を押さえるように両腕を開き胸に当てて頭を下向きにして苦しい顔になり、ジャクリーン夫人は一瞬何が起こったのか判らず、大統領の顔を覗き込んだ。その前列では撃たれたコナリー知事が「ノー、ノー、ノー!大変だ、皆殺しにされるぞ!」と叫び、その声で運転していたビル・グリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認して前方を見た。その時に一瞬彼はブレーキを踏んでおり、再び後方を振り向くとケネディが頭部に致命傷を負う瞬間を実際に目の前で目撃することとなった。犯人が狙撃したとされる教科書倉庫ビル。6階右端の窓(写真の印(A))から撃ったと目撃されている。
ケネディに命中した第2発目がケネディの右側頭部を貫通すると、彼はわずかに前傾し、彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになり、その後座席後方のクッションに垂直にぶつかり、すぐに妻のいた左側に崩れ落ちた。ジャクリーン夫人が動転して後方に目を移し、オープンカーの後方のトランクに這い出た(この時、夫人はトランクに飛び散ったケネディの頭部の骨片を手にしており、病院到着後に医師に渡している)。1発目の直後に後続の車を降りて駆け寄った護衛官のクリント・ヒルが夫人が這い出るのとほぼ同時にリンカーン・コンチネンタルに追いつき、トランクに飛び乗って夫人を座席に押し戻し、パークランド記念病院へ向かうよう指示した。
テキサス教科書倉庫ビルの前は芝生の広場で通称ディーリー・プラザと呼ばれている。この広場の道路をパレード中の大統領が市民の目前で撃たれてすぐにリンカーン・コンチネンタルが猛スピードで走っていくところを多くの市民が見て、エルム通りはパニックに陥り、パレードを見に来ていた市民が一斉にディーリー・プラザをかけ抜けていった。地元ダラス警察の白バイ隊員がバイクを置いてその場で拳銃を取り出して構えたが、何がどうなったのか分からず警察官もパニックになっていた。
大統領の被弾
大統領が最初の弾を受けた時は喉に手を当てようと両腕の肘が上に向かっている。背中の上部から喉仏に貫通したと見られているが、この1発だけの被弾であれば致命傷に至らなかったとも言われている。2発目が大統領の右側頭部を貫き、大統領の頭部はひどく破壊され、これが致命傷になった。狙撃の瞬間をたまたま8mmフィルムで撮影していたエイブラハム・ザプルーダーのいわゆるザプルーダーフィルムの映像(後述)では、被弾した際に大統領の身体が一瞬後方に動いて、その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、オズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。ただし、ザプルーダーフィルムのコマ番号313では血しぶきなどの飛沫は前方に飛び散っている。
夫人の証言
ジャクリーン夫人は後にウォーレン委員会での証言で「銃撃は2発しかなかったと記憶している」「1発目が当たった時、彼がちょっと訝しげな表情を顔に浮かべていて片手が上がっていた」「2発目で吹き飛ばされた彼の頭蓋骨を押さえようと彼の髪をしっかり押さえて、彼の頭を膝に載せて車内で伏せていた」と述べて、後方に這い出したことは「そのことは全く覚えていない」と説明している。
記録された暗殺(ザプルーダー・フィルム)
大統領一行がダラスに到着した時に、地元のラジオおよびテレビ局は空港での到着の模様は中継放送したが、市内パレードの中継はしなかった。そして目的地のダラス・トレードセンターの昼食会の会場にテレビカメラを設置して昼食会を中継する予定であった。後にKBOX-AMはその日のニュースの抜粋で銃撃の音をLPレコードで放送したが、それはオリジナルの録音ではなかった。車列の後方の車に乗車した各メディアの記者やカメラマン を除いて、ほとんどの報道機関はトレードセンターでケネディの到着を待っていた。
しかしながら、ディーリー・プラザでの暗殺現場はサイレントの 8mmフィルムに26.6秒間記録されていた。アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーが撮った物である為、後にザプルーダー・フィルムの別名で呼ばれるようになった。
FBIはザプルーダーが使っていた8ミリカメラが毎秒18.3コマで動いていたことから、暗殺時の大統領のリムジンの速度は時速11.2マイル(18キロ)であったと推測した。そしてザプルーダーフィルム全486コマから各コマに番号を確定して、大統領が頭部に致命傷を負った弾を被弾したコマを番号313 と指定した。そして大統領が1発目の銃弾を受けたのが番号210から224の間と確定した。1発目は道路標識に遮られて、被弾した瞬間の大統領の様子は写っていない。大統領の顔が再び写っていたのは番号225で明らかに撃たれている様子であったため、それ以前に撃たれたと見られている。そしてコナリー知事が被弾したのは番号240であることが分かった。
これは事件直後にFBIが3発撃ち込まれて、1発目が大統領へ、2発目が知事へ、3発目が再び大統領へ当たったという報告と矛盾することとなった。オズワルドが撃ったとされるライフル銃 で連射した場合、「好機をとらえた二発の命中弾」の最低限の時間は2.3秒でザプルーダーフィルムで42コマが必要であった。ここに当初考えられた単独の狙撃犯ではなく、別に狙撃犯がいたのではと考えられることとなった。
暗殺を現場で目撃し記録した者は、ザプルーダーだけではなかった。いずれも、ザプルーダーのフィルムに比べて遠くからではあるが、狙撃の瞬間をフィルムに撮影した者は他に3人いることが知られている。その他にも、暗殺時刻あたりで現場やその周辺をフィルム撮影した者は、ディーリー・プラザに多数いたことが知られているほか、暗殺時ケネディの車列が通行していたエルム通りの南側で、身元不明の青い服を着た女性がフィルム撮影を行っていたことが分かっている。写真(静止画)撮影も多くの人々によって行われている。事件発生時、ディーリー・プラザには32人ものプロ、アマの写真家がいた。その中でプロの写真家は、アイク・アルトジェンというダラスのAP通信のジャーナリスト唯一人であった。アルトジェンが撮影した写真は、この暗殺事件を撮影した写真の中でも最も有名なものの一つである。
Zapruder film Lightbox
ティピット巡査の死とオズワルドの逮捕
ダラス市警察とFBIは現場で、付近のビルを直ちに出入口を閉鎖して不審尋問を始めた。銃声がした方角からテキサス州立公立学校教科書倉庫ビルに第一の容疑がかかり、数人の警官がすぐにビル内に捜索に入った。ダラス市警察のマーチン・ベーカー警察官はオートバイで伴走中に狙撃されるとすぐにオートバイを止めてビル内に入り2階の従業員食堂でコーラをラッパ飲みしていた男を見つけて、横にいたビルの支配人に聞くと「この男はうちの従業員でリー・ハーヴェイ・オズワルドです」と支配人は答えた。
警官はそのまま上の階に上がっていった。警官たちは、まさかテキサス教科書倉庫ビルの従業員が犯人であるとは思わなかった。当然外部から入り込んだ人間の犯行という考えがあった。この時狙撃からほぼ3分が経過していた。そして6階の部屋(段ボール箱が山積みされた倉庫)からライフル銃1丁と弾丸の薬莢3個を発見 して、また、窓の手前に段ボール箱を積んでその上にライフル銃を安定させた跡があった。
すぐに従業員の点検が行われて、1人だけ姿が消えていることが判明した。つい先ほど食堂にいたリー・ハーヴェイ・オズワルドが何故か居なくなっていた。オズワルドのその後の足どりは、12時33分に警官が居たビルの出入口をすり抜けて、歩いて近くのバス停に行き、12時40分にバスに乗ったが大統領暗殺事件の混乱でバスが進まず、12時44分にすぐに降りて12時48分にタクシーに乗り、下宿先の自宅に帰ったのが13時頃で、下宿の管理人ロバーツ夫人はオズワルドが息を切らして帰ってきたことを見ている。ここからすぐに着替えて再び出て、13時30分頃にテキサス劇場という映画館に入っている。この間の13時20分にダラス市警に男性の声でパトカーの警官が撃たれて死んでいるというパトカーの無線通信を使った緊急連絡が入り、出動した警察官がダラス市警察のJ・D・ティピット巡査の死体を確認している。ほどなく映画館の切符売りの女性から切符も買わずに館内に入った不審な男がいるとの緊急連絡が入り、警官隊が映画館を包囲して中に入り、照明を明るくして座席に座っている客を1人1人調べ始めると、突然殴りかかってきた男がいて格闘の末取り押さえた。こうして13時40分にオズワルドは逮捕された。ケネディ狙撃の70分後に現場近くの劇場での逮捕であった。J・D・ティピット巡査はオズワルドの逃走でダラス市警から緊急に各警察官にオズワルドの手配が行われた時、オズワルドによく似た男を見かけて、パトカーを下りて訊問しようとして撃たれ3発の銃弾を浴びて即死であった。これを直接目撃したのが、ヘレン・マーカスという女性で、その日夜遅くにダラス警察本部でオズワルドと面通しして確認している。この他に6人の目撃者がオズワルドを確認している。
リー・ハーヴェイ・オズワルドの訊問はこの22日深更までほとんど休みなしで続けられ、この日の18時30頃にダラス市警のJ・D・ティピット巡査を殺害した容疑で告発され、その夜遅く23時30分頃に大統領暗殺容疑で告発された。しかしオズワルドはケネディ大統領殺害もティピット巡査殺害もどちらも頑強に否定した。
空港への遺体搬送
14時前に、遺体をダラスで解剖しようとするダラス警察のアール・ローズ検視官と、首都ワシントンに遺体を一刻も早く搬送しようとするシークレット・サービスのロイ・ケラーマンらとの間で10〜15分間、一悶着があった。大統領が暗殺されてもテキサス州法が適用 されて遺体の解剖はテキサス州で行うと説明しても、シークレット・サービスにとっては何よりも遺体をワシントンに戻すことが優先されると考えていた。結局ローズ検視官 は引き下がった。そして後に彼は遺体解剖はやはりダラスで行うべきであった、遺体を州外に持ち出したことが陰謀説を生み出していると語っている。そして皮肉にも、ワシントンに戻ってから司法解剖を行ったベセスダ海軍病院の病理医も後に同じ意見を述べている。
14時05分にケネディ大統領の遺体はパークランド記念病院からエアフォース・ワンに搬送された。死去の発表から30分過ぎて全米が重苦しい雰囲気に包まれていた。パークランド記念病院から遺体が搬出された際は白い遺体袋で搬出され、灰色の金属製の棺に収納されたものが、エアフォースワンに搬入された際にはいつの間にか銅色の棺に変わっており、パークランド記念病院から空港まで搬送されている間にどのような形で棺が交換されたのか明らかにされていない。
ジョンソン副大統領の昇格とワシントンへの帰途
リンドン・B・ジョンソン副大統領はケネディが乗ったリムジンの2台後の車に乗っていたが難を逃れ、パークランド記念病院で大統領の死に接して、シークレットサービスの警護を受けながら急遽ラブ・フィールド空港のエアフォース・ワンに向かった。この病院を出た時と同時にCBSのウォルター・クロンカイトがケネディ死去の公式発表をテレビで伝えたが、クロンカイトが涙ぐんだ後に「ジョンソン副大統領はすでにダラスの病院を離れ、どこに向かったかは分からないとのことです。おそらく速やかに就任宣誓を行い、第36代合衆国大統領に就任する予定です」と語った。
そして副大統領はエアフォース・ワンに到着して、機内に入ってすぐに大統領専用電話を使って、アイゼンハワーとトルーマンの両元大統領に事態の説明をして全面的協力を求めた。そしてワシントンにいる閣僚4名と大統領補佐官らに職場を離れないことを伝えた。そしてジャクリーン夫人らが遺体とともに戻ってきた後に機内でアメリカ合衆国大統領の就任宣誓を行い、第36代大統領に昇格した。この後に機内からハイアニスポートに電話してジョンソンとレディバード夫人から大統領の母ローズにお悔やみが伝えられた。
ジョンソンとジャクリーン夫人らを乗せたエアフォース・ワン は、ジョンソンの大統領就任宣誓が終わった後にダラスを飛び立ち、史上初めて2人の大統領を乗せてワシントンD.C.郊外のアンドルーズ空軍基地に着陸した。ケネディ大統領の遺体の入った棺は、空港の荷物搬送機で降ろされ、ジャクリーンと迎えに来てすぐに機内に入ったロバート・ケネディらもケネディの棺とともに同じ搬送機で降りて、ベセスダ海軍病院に搬送された。
ジョンソン新大統領は、その後にタラップを利用して降り、その場で新大統領としてのコメントを発表して「今は全ての人々にとって悲しみの時である。我々は計り知れない損失を受けた。私にとって、これは深い個人的な悲劇である。ケネディ夫人とそのご家族の悲しみを全世界が分かち合うものと思う。私は全力をつくす。神のご加護を」と述べた。ダラスからアンドルーズ空軍基地にケネディの遺体が戻り、空港でコメントを発表したジョンソン新大統領のテキサス訛りと、ケネディのボストン訛りの対比に、アメリカ国民は大統領交代を実感したという。
オズワルド殺害とジャック・ルビー
ケネディ大統領暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後の11月24日11時21分にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)によって射殺された。なお、この現場はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万のアメリカ人が映像でこの瞬間をリアルタイムに見た。
ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」、「悲しみに暮れるケネディの妻・ジャクリーンが法廷に立つ事を防ぐ為」という不可解な理由であったが、ウォーレン委員会どころかマスコミさえもが、その不可解さを取り上げることはなかった。また、事件後にルビーがオズワルドと複数の人物を介して知人の関係であった上、なぜか暗殺事件発生直後からオズワルドの行動を常に追いかけていたことが複数の人物から証言があったし、この事件と何の関係もなく、かつ警察関係者でもマスコミ関係者でもないルビーがなぜやすやすと警察署内に入りこめたのか、についてウォーレン委員会は、ダラス市警察本部の事前警戒の不備を厳しく批判するだけで、その理由については最終的に満足な説明はしていない。
ただルビーの犯行が計画されたものでないことは明らかになっている。もともと24日10時にオズワルドを移送する予定(前日に報道陣に説明はしていた)であったのが、取り調べが長引き11時20分に延びたのだが、この日ルビーは10時に起き、すぐに自宅にダンサーからギャラの支払いを請求する電話が来て、急ぎ郵便局で25ドルの送金をするために11時過ぎに車で郵便局に着き、11時17分に送金を終えて外へ出るとすぐ近くの警察署でオズワルド移送の動きがあるのを見て、車に愛犬を置いたまま警察署の地下通路を通って入って行った。郵便局を出てわずか4分後の犯行であった。もしオズワルドの移送が予定通り10時であったら、あるいはもう少し2~3分早く移送していたら11時21分の犯行は出来無かったことになり、彼の衝動的な行動であったことは疑う余地はない。
なお、ルビーは死刑判決を受け再審を待っている間に精神的に不安定になり「何者かに癌細胞を注射された」「ワシントンの刑務所に移送してくれたら本当のことをすべて話す」など不可解な言動が見受けられたという。4年後の1967年、肺癌による肺塞栓症により獄中で死亡した。
陰謀論
オズワルドによる単独の犯行であったとする政府の公式説明に納得せず、何らかの陰謀があったと主張するものも多い。2003年の世論調査では、70パーセントの人々がケネディ暗殺は単独犯ではなく複数犯による犯行であったと考えている。実行犯についてもオズワルド以外に狙撃したものがいたとする説もある。証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、大規模な証拠隠滅が行われたと主張するものもいる。リー・ハーヴェイ・オズワルドがダラス市警察本部でジャック・ルビーに射殺され、さらにジャック・ルビーが服役中に病死したのは口封じのためであるとする意見もある。陸井三郎は目撃証言者12人が変死または怪死していると主張している。
映画『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』予告編