1990年(平成2年)の12月29日、東京・銀座のシャンソン喫茶店の老舗「銀巴里ぎんパリ」が閉店した。
1951年(昭和26年)に日本初のシャンソン喫茶店として開店したこの店は、戦後のシャンソンブームを支え、数々の名曲を生み出した。最後のショーは「銀巴里」で数多くのステージを重ねてきた美輪明宏が行った。
「銀巴里」は、シャンソンを映画程度の料金で聞いてもらいたいと、消費税も取らず、コーヒー付き1800円で頑張ってきたが、地価高騰には勝てなかった。現在、跡地の銀座七丁目9番11号付近に石碑が立つ。
「東の銀巴里、西のラ・ベル・エポック」とも呼ばれた。東京・武蔵野市吉祥寺にあったラ・ベル・エポックは、1974年(昭和49年)に開店し、2009年(平成21年)10月31日に閉店している。「銀巴里」を題材とした音楽作品には、美輪明宏『いとしの銀巴里』、野坂昭如『銀巴里物語』、なかにし礼『さらば銀巴里』がある。
銀巴里
銀巴里(ぎんパリ)は、1951年–1990年まで東京銀座七丁目にあった日本初のシャンソン喫茶である。「東の銀巴里、西のラ・ベル・エポック(武蔵野市吉祥寺 2009年10月31日閉店)」ともよばれた。
美輪明宏、戸川昌子、古賀力、金子由香利、戸山英二、大木康子、長谷川きよし、宇野ゆう子、クミコらを輩出し、三島由紀夫、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一らが集い、演出に尽力した。
惜しまれつつ閉店したのは1990年(平成2)。このとき「銀巴里さよならコンサート」が行われ、銀巴里での日々を思い作詞作曲をした「いとしの銀巴里」を涙ながらに歌い上げた。
閉店日には、銀巴里の名が記されたコーヒーカップや食器類が、すべて常連客によって持ち帰られた。
跡地の銀座7丁目9番11号付近に石碑が立つ。
唯一のれん分けされた店が札幌市のススキノにあったが、2012年9月29日に閉店している。
美輪明宏
エンリコ・カルーソーやベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、1951年の春、15歳の美輪は、国立音楽高等学校(現・国立音楽大学付属高等学校)進学するため上京する。ある時、帰省した際に、父が生活が苦しくなった親戚に対して無情に見捨てるような態度をとったことに激怒し、大喧嘩した。父から絶縁を言い渡され、仕送りも当然ながら止められた。美輪は東京でひとり生きていくために音楽学校を中退、生活費を稼ぐために進駐軍のキャンプ廻りをして歌を披露した。2015年時点で「芸歴64年、1951年(昭和26年)に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と本人が語っている。新宿駅で寝泊りしていた時期もある。
1952年、17歳になった美輪は、ゲイバーやバーテンなどのアルバイトにも従事して日当を稼いでいた。その頃、銀座7丁目にあるシャンソン喫茶「銀巴里」(1951年 – 1990年)で美少年(ボーイ)兼歌手募集の張り紙広告を見て応募。シャンソン喫茶「銀巴里」と歌手として専属契約を交わし、国籍・年齢・性別不詳として売り出す。次第に人気を博し、三島由紀夫、吉行淳之介、野坂昭如、大江健三郎、中原淳一、遠藤周作、寺山修司、なかにし礼等、文化人の支持を得る。歌手としての道を歩み始めた頃、父は事業に失敗し、美輪のもとを訪ねて金の無心をしてきた。かつて父が親戚にした無情な振る舞いと同じことを美輪が出来るはずもなく、かといって父を許せない気持ちが消えるはずもなかったが、兄弟の生活を守るために美輪は銀巴里での歌手活動とは別にアルバイトと称してキャバレーや進駐軍キャンプで歌った。
1957年、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーし、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。元禄時代の小姓衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツ等を身に纏いユニセックスファッションと、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、マス・メディアから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する。同じ、1957年製作の映画『暖流』(増村保造監督。大映)に歌手として出演している。
「メケメケ」以来のブームは、1年程で沈静化。その間に、週刊誌にて、自身が同性愛者である事を公表したことや、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く「蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」)に無い、自ら和訳した生々しい内容のシャンソンを歌唱した事に対する反発もあり、人気は急落する。そんな逆風の中、作詞・作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」等の音楽作品は、この頃、既に作詞・作曲していた。しかし、その活動は当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと共に、吐血等原爆症に悩まされ始める事になる。
しかし、1963年には、中村八大らの助力により日本初となる全作品、自らの作品によるリサイタルを開催。翌、1964年には、「ヨイトマケの唄」を初めてステージで披露する。1966年、前年の内にレコード化された「ヨイトマケの唄」(「ふるさとの空の下で」とのカップリング)が注目され、人気が再燃する。
銀巴里ライブ 美輪明宏