小説家・直木三十五(なおき さんじゅうご)の1934年(昭和9年)の忌日。代表作の小説『南国太平記』から「南国忌」と呼ばれている。
直木三十五について
1891年(明治24年)2月12日に大阪府大阪市中央区に生まれる。本名は植村宗一。東洋史学者の植村清二は実弟。早稲田大学高等師範部英語科を月謝未納で中退。しかし、早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念写真の撮影にも参加している。
1923年(大正12年)に『文藝春秋』の創刊に参加して文壇ゴシップ欄を担当。毒舌で話題を呼び、『由比根元大殺記』(1929年)、『南国太平記』(1931年)の成功で流行作家となる。筆名は本名の一字「植」を分解して直木、年齢に応じて三十一、三十二、三十三と変更、以後三十五を名乗る。
それ以降は改名することはなかった。理由は「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのが嫌だったからだという。また菊池寛から「もういい加減(年齢とともにペンネームを変えることは)やめろ」と忠告されたからだとも言われている。
他に竹林賢七などの筆名もある。
1932年(昭和7年)には「ファシズム宣言」をし、国策的傾向の強い『日本の戦慄』で文壇に波紋を投じる。結核性脳膜炎により43歳で死去。大衆文学の向上に貢献した。その他の作品に『合戦』(1928年)、『荒木又右衛門』(1930年)、『楠木正成』(1932年)などがある。
亡くなった翌年1935年(昭和10年)、直木の友人だった作家・文藝春秋社長の菊池寛の発意により、純文学の「芥川龍之介賞」(通称:「芥川賞」)とともに、大衆文学の分野の新人に贈る賞として「直木三十五賞」(通称:「直木賞」)が創設された。
直木の「タニマチ」医師、薄恕一
直木の母方の叔父の親友が、相撲界でパトロンを指す「タニマチ」の語源となった医師薄恕一である。 薄の経営する大阪谷町六丁目「薄病院」に、病弱な直木は幼稚園児のころから通院。19歳のころにはアルバイトで学費も稼ぐなど、物心両面で世話になっている。 このため、直木は作家となった後も薄への感謝を忘れず、自叙伝「死までを語る」で、「薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。」「殆ほとんど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたからである。」と綴っている。 また、薄は、直木の弟「清二」の名づけ親にもなっている。
直木とマキノ省三
直木は三十三と名乗っていたころ、マキノ省三の家に居候していた。当時中学生だったマキノ雅弘は、なぜ直木が家にいるのか分からなかった。マキノ雅弘は、「小学校三年までしか学校に行っていない父が、直木が早稲田中退というだけで、しかも在学中には自分がファンだった澤田正二郎と同級だったということもあり、直木のことをよく聞いて居候させていたのだろう」と語っている。
このころ直木は朝から晩まで着物をぞろりとひっかけるように着て、マキノ雅弘をつかまえると「おい、マサ公」と決まって用をいいつけた。金もないのに「スリーキャッスル(煙草)を買ってこい」といい、「おっさん、金がない」と答えると「盗んで来いッ!」と怒鳴るような人物だった。マキノ雅弘は「生意気ながら、早稲田大学中退程度で大した人だとは思わなかった」と語っている。
直木は1925年(大正14年)に菊池寛を頭に連合映画芸術家協会を設立して映画製作に乗り出した。資金は全てマキノ省三に出させていた。映画人からは「作家ゴロ」「映画ゴロ」と陰口をたたかれ、マキノ雅弘は「直木三十五って男は活動屋のブローカーになり下がった奴で、金が欲しいだけで何も書かない作家だ」と人から教えてもらったという。1926年(大正15年)の『山賊』はマキノプロの施設と資金で撮り、直木はただタイトルを出すだけで金を取っていた。マキノ雅弘は「文芸作家協会員と言う人達は、恥ずかしいということを知らない人たちばかりだと真面目に思ったものである」と述べている。
直木はのちに「大衆文芸同人」と名を改め、連合映画芸術家協会と同じ陣容で『野火』を製作。マキノ雅弘は「大衆文芸同人も聯合映画芸術家協会も、相手は活動屋だとタカをくくって食い物にしていたようだ。連中に振り回されて、マキノは、せいぜいどっかの雑誌屋の宣伝のための映画を客に見せていたのではなかったろうか」としている。
片岡千恵蔵は直木の紹介でマキノに入社するが、直木が初めて脚本を書いたのが千恵蔵主演の『烏組就縛始末記』であり、以来直木と千恵蔵はくっつきすぎていて、マキノ省三は千恵蔵をやや敬遠していた。千恵蔵は翌年マキノを脱退するが、マキノ雅弘は「今こそ云えることだが、直木という男は三十五になるまでマキノから銭だけ取って何もしなかった人であり、そんなタカリ専門の男からの個人的な紹介であったことが—当然ながら最初からマキノの不信感を買うことになり—千恵蔵の不幸であった」とこのスタアの脱退について語っている。
マキノプロの大作『忠魂義烈 ・實録忠臣蔵』は当初直木がどうしても原作を書かせろと云って聞かず、結局は一行も書けなかった。そこでマキノ省三は直木と連合映画芸術家協会からこの作品を切り離すため「實録」と銘打った。直木に反感を持っていたマキノ夫人の知世子もこの「實録」には喜んで協力している。マキノ省三が失火の後病臥しても直木は見舞いもなく、撮影所からぱったり姿を消した。
マキノ雅弘は「当時の私たち若いマキノの連中は、とにかく衣笠貞之助、伊藤大輔、二川文太郎、井上金太郎らの先輩に追いつけ、追いつけで、現場で走り回り、がんばったものだった。机の前で字を書いてホンを作り、映画や芝居の河原乞食—つまり私たち—をおだてて金儲けをし、偉くなられた『芸術家』の先生とは同じ志を持たなかった。少なくとも、『芸術』とは読むもんで、見るもんじゃないと私たちは思った」とし、「直木賞ができたときには何やこれと首をかしげた、直木三十三から三十五になってもついに彼の名作らしいものを全く知らなかった愚かな私は現在も続いている直木賞に、いったいどんな値打ちがあるのかと首をかしげずにはいられないのである」としている。
直木三十五賞
直木三十五賞(なおきさんじゅうごしょう)は、無名・新人及び中堅作家による(ただし、現在は下記のとおり、このカテゴライズは実質上、無効化している)大衆小説作品に与えられる文学賞である。通称は直木賞。
かつては芥川賞と同じく無名・新人作家に対する賞であったといわれているが、1970年代あたりから中堅作家中心に移行、近年では長老クラスの大ベテランが受賞することも多々ある。(もっとも、直木賞は設定当初ですら新人のための賞であったとは言い難い面がある。第1回受賞の川口松太郎や第3回受賞の海音寺潮五郎からして既に新人とは言うには無理があったし、戦後第一回目である第21回受賞の富田常雄は『姿三四郎』発表後の受賞であり、既に文壇長者番付上位の人気作家であった。その他にも、候補者・受賞者の中には新人とは言い難い人物が少なくない)
発足当初の対象は新人による大衆小説であり、芥川賞とは密接不可分の関係にある。また、運営者である日本文学振興会の事務所が社内に置かれている文藝春秋から刊行、あるいは同社の雑誌に掲載された小説に対して多く授賞している傾向があり、文藝春秋とも事実上不可分の関係となっている。
創設時、選考の対象は「無名若しくは新進作家の大衆文芸」(直木賞規定)であったが、戦後になり回を重ねるごとに芥川賞と比べて若手新人が受賞しにくい傾向となった。これは1つには各回の選評にしばしばあるように大衆文学を対象とする賞の性質上、受賞後作家として一本立ちするだけの筆力があるかどうかを選考委員が重視したためであり、背景には「大衆小説は作品を売ることで作家として生計を立ててゆく必要がある」という考え方があったものと推測される。また創設時にはまだ新進のジャンルであった大衆文学の分野における実質唯一の新人賞であった直木賞が、戦後多くの出版社によって後発の大衆文学の賞が創設されていく中にあって、当該分野の中でもっとも長い歴史と権威を持つ、大衆文学の進むべき方向を明らかにする重要な賞として位置づけられるようになったこととも関係があるだろう。
現在ではこのような状態が長く続いたため選考基準に中堅作家という一項が新たに加えられ、実質的には既に一定のキャリアを持つ人気実力派作家のための賞という設定となり、直木賞が当初に持たされていた「文学界の有望新人を発掘する」という機能はおのずから他の新人賞に振られることとなった。結果としてすでに中堅・ベテランの著名作家として名を成している人物に対していわゆる「遅すぎたノミネート」「遅すぎた受賞」を行うケースが多く、さらに既に人気作家となっている者にあっては選考(候補)を辞退する事例も起きており[注釈 3][1]この点で文芸界・各種マスコミの内外で数多くの議論が巻き起こってきたことも事実である。
選考対象の「大衆小説」にまつわる問題としては、推理小説を主たる活動分野とする作家が受賞しにくい傾向が長く続いた点がある。受賞したのは多岐川恭の『落ちる』(第40回)、生島治郎『追いつめる』(第57回)、中村正䡄『元首の謀叛』(第84回)くらいで、笹沢左保、真保裕一、貫井徳郎、湊かなえは4度、北方謙三、志水辰夫、西村寿行は3度候補となりながら受賞に至らず、赤川次郎、小杉健治、折原一、島田荘司、福井晴敏ら推理作家として大成した作家も届かず、三好徹、陳舜臣、結城昌治、連城三紀彦、皆川博子らも非ミステリー分野の作品で受賞していた。しかし逢坂剛が『カディスの赤い星』で受賞(第96回)して以後は認められるようになり、笹倉明(第101回)、原尞(第102回)、髙村薫(第109回)、大沢在昌(第110回)、小池真理子、藤原伊織(第114回)、乃南アサ(第115回)、宮部みゆき(第120回)とコンスタントに受賞者が出た1989年から1999年は「ミステリーの隆盛」とも呼ばれる。北方、髙村、宮部は桐野夏生(第121回)、東野圭吾(第134回)と共に選考委員を務めることになり、第150回現在で選考委員9人のうち5人がミステリー畑出身者で占められた(東野圭吾は161回を最後に選考委員を退任し、後任には角田光代が就任した)。
同様に大衆小説内でも発展期以降の歴史が比較的浅いSFやファンタジーなども選考段階では幾度か俎上に上げられてはいるが、実際の受賞事例は景山民夫『遠い海から来たCOO』(第99回)が唯一である(半村良はSF小説で2回候補になった後、人情小説で受賞している)。昭和末期に勃興したライトノベルのレーベルから刊行された作品の中にも広義にいえば若年層向けの大衆文学ともいえる要素を内含している作品が一部見られるが、日本文学振興会と密接な関係にある文藝春秋がこのジャンルに対するノウハウを持ち合わせていないためか、ほぼ目が向けられていないに等しい(ライトノベル出身の受賞作家としては桜庭一樹がいるが、受賞作は一般文芸誌に掲載された作品であった)。この様に現在でも空想性が極端に高いSF・ファンタジー等のジャンルに対する評価が総じて低いのも直木賞選考の特徴である。古くより選考委員の席の大半を過去の本賞受賞者が占めていることもあってか、毎回行われる選評での高評価も伝奇小説・時代小説・歴史小説・人情小説などといった多くの受賞者が属する従来型の大衆文学に属する作品に偏りがちで、新規に開拓された後発ジャンルや選考委員たちが専門知識を持たないか興味の薄いジャンルに対してはジャンルそのものへの理解が乏しい、言い換えれば守旧的な選考を行う傾向が根強い一面がある。この様な風潮によって受賞を逃した作家には小松左京・星新一・筒井康隆・広瀬正・万城目学などがおり、中でも不利とされるSFを専門範囲とし三度にわたり落選の憂き目を見た筒井は、後に『別冊文藝春秋』において、直木賞をもじった「直廾賞」の選考委員たちが皆殺しにされるという、直木賞選考を批判的に風刺した小説「大いなる助走」を発表している。
直木三十五「宮本武蔵」(ラジオドラマ)