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2月3日今日は何の日?:大岡越前の日

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1717年(享保2年)の2月3日(旧暦)、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が江戸町奉行(南町奉行)に就任した。

「大岡裁き」と呼ばれる名裁判で有名であるが、19年間の在任中の裁判は3回だけで、そのうち忠相が執り行ったのは1回だけだった。

8代将軍・徳川吉宗の信頼が厚く、「享保の改革」と呼ばれる幕政改革を町奉行として支えた。

また、江戸の市中行政に携わったほか、裁判を行う機関である評定所の中心となる構成員「評定所一座」に加わり、関東周辺の農政を担当する「関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)」や「寺社奉行」を務めた。

大岡越前守忠相

大岡越前守忠相

大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の第4代当主で、9代将軍・徳川家重の側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大岡越前守または大岡越前守忠相公として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。

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出生から町奉行就任まで

1700石の旗本・大岡忠高の四男として江戸に生まれる。貞享3年(1686年)、同族の1920石の旗本・大岡忠真(大岡忠右衛門)の養子となり、忠真の娘と婚約する。貞享4年(1687年)には5代将軍・徳川綱吉に初めて御目見する。元禄9年(1696年)に従兄にあたる大岡忠英の事件に連座して閉門処置となる。翌年に赦され、養父病死のため元禄13年(1700年)、家督と遺領を継ぎ、忠世家3代当主となる。

綱吉時代に、寄合旗本無役から元禄15年(1702年)には書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務める。宝永元年(1704年)には徒頭、宝永4年(1707年)には使番となり、宝永5年(1708年)には目付に就任し、幕府官僚として成長する。宝永6年(1709年)には嫡男・忠宜が誕生する。

6代将軍・徳川家宣の時代、正徳2年(1712年)正月に遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)の17代目に就任、佐野直行の跡役で、相役は渡辺輝。同年4月には任地へ赴いている。同年には従五位下・能登守に叙任。正徳3年(1713年)には交代で帰府し、翌年に再び赴任している。

在職中には、奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生しており、山田(現・伊勢市)と松坂(現・松阪市)との境界を巡る訴訟では、紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたという。当時の紀州藩主で、後に将軍職に就任し忠相を抜擢する吉宗は、事実上一方の当事者だったにもかかわらず、忠相の公正な裁きぶりを認めたという。山田奉行時代に忠相と吉宗の間に知縁ができたとする同様の巷説は幾つかあるが、実際には奉行時代の忠相には他領との係争を裁定する権限はなく、後代に成立したものであると考えられている。また遠国奉行を経て江戸町奉行という昇進コースは順当なものであり、60代で就任することが多かった町奉行に40代で就任したことは、とりたてて抜擢人事などではないと指摘される。山田と松坂との境界を巡る訴訟については、紀州藩との境域問題を解決したのは第18代大岡越前ではなく第10代桑山貞政(桑山丹後守後改下野守)であることは「寛文十年二月十日去る寛文七年十一月十五日桑山丹後守に依って確定した神領前山境域に対し幕府より其の朱印状が下付された」と「山田奉行御役所旧記」に記録されており、山田三方会合「山田古法式目」にも桑山貞政奉行が紀州藩に申し入れ、寛文7年11月に解決したと記されている。これを大岡越前の業績としたのは、享保以降、歌舞伎の題材を狙った作り話と言う説がある。

7代将軍・徳川家継の時代の享保元年(1716年)には普請奉行となり、江戸の土木工事や屋敷割を指揮する。大久保忠位の跡役で、相役は島田政辰と朽木定盛。同年8月には徳川吉宗が将軍に就任し、解任された新井白石や間部詮房らの屋敷代にも携わっている。忠相は翌享保2年(1717年)、江戸町奉行(南町奉行)となる。松野助義の跡役で、相役の北町奉行は中山時春、中町奉行は坪内定鑑。坪内定鑑の名乗りが忠相と同じ「能登守」であったため、このときに忠相は「越前守」と改める。

町奉行時代の活躍

吉宗は享保の改革と呼ばれる幕政改革に着手するが、忠相は諸改革のうち町奉行として江戸の都市政策に携わることになり、評定所一座にも加わり司法にも携わった。このころ奉行所体制の機構改革が行われており、中町奉行が廃止され両町奉行所の支配領域が拡大し、忠相の就任時には町奉行の権限が強化されていた。享保4年(1719年)には本所奉行を廃止して本所深川地域を編入し、奉行所の機構改革も行う。享保8年(1723年)には相役中山時春が辞任し、跡役は諏訪頼篤となる。

市政においては、町代の廃止(享保6年)や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、享保3年(1718年)には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、享保5年(1720年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成した。また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行う。これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化された。享保10年(1725年)9月には2,000石を加増され3,920石となる。風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化する。

享保6年(1721年)12月には吉宗が設置していた目安箱に小川笙船から施薬院設置を嘆願する投書があった。吉宗は有馬氏倫に施薬院の設立を命じ、北町奉行の中山時春とともに小石川養生所の設置に尽力している。

下層民対策では、このほか与力の加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモの栽培を助成する。将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言している。

現在では、書籍の最終ページに「奥付」が記載されるが、これは、少数ながら自発的に奥付を付けている書籍はあったものを、享保6年(1721年)に大岡越前が奥付を義務化させたことにより一般化した。

また、在任中の享保7年(1722年)には弛緩していた江戸近郊の秩序再建のため、地方御用を拝命して農政にも携わり、役人集団を率いて武蔵野新田や上総国新田の支配、小田原藩領の酒匂川普請などに携わっており、さらに儒教思想を浸透させるため忠孝者への褒賞も積極的に行っている。元文小判(文字小判)

元文元年(1736年)5月12日、幕府は町奉行の大岡忠相と勘定奉行の細田時以を最高責任者とした貨幣改鋳を実施する。当日、大岡により発せられた町触には、通貨不足の状況を解決するため、貨幣の質を落とす改鋳を実施したと明言されている。改鋳直後、商人らによる良質の旧銀の退蔵によって銀が高騰したため、同年6月26日、大岡は銀高となった理由を問うべく本両替町と駿河町の両替商10人を奉行所に呼び出した。しかし、病気や他国へ出かけているなどの理由で、手代が主人の名代として出向いた。忠相は主人らの代わりに手代らを詰問したが満足な回答を得られなかったため、彼らを全員伝馬町の牢屋へ投獄した。これに慌てた両替商や町家主たちの数十回にわたる嘆願も忠相は聞き入れなかった。同年8月12日に忠相が突然寺社奉行に転任し、もう1人の町奉行(北町奉行)の稲生正武が8月19日に出牢を許可するまで、手代らは53日もの間牢屋に留め置かれた。

 

 

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