東京都渋谷区神宮前に本社を置き、音楽ソフト・映像ソフトなどの企画・制作・販売を行うユニバーサルミュージック合同会社が制定。
日付は「ザ・ローリング・ストーンズ」がデビューから28年経った1990年(平成2年)2月14日に初めて日本公演を行ったことから。
彼らの魅力をさらに多くの人に知ってもらうことが目的。記念日は2019年(平成31年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
ザ・ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)は、イギリスのロックバンド。1962年(昭和37年)4月のロンドンで、ブライアン・ジョーンズ(ギター、ハーモニカ)、イアン・スチュワート(ピアノ)、ミック・ジャガー(リードヴォーカル、ハーモニカ)、キース・リチャーズ(ギター、ボーカル)によって結成、その後間もなくベーシストのビル・ワイマンとドラマーのチャーリー・ワッツが参加した。
1960年代前半から現在まで半世紀以上、1度も解散することなく第一線で活躍を続ける、ロック界の最高峰に君臨するバンドである。エアロスミス、プライマル・スクリームやジェット、日本では萩原健一とテンプターズ、忌野清志郎とRCサクセション、鮎川誠、Charなど、ローリング・ストーンズに影響を受けたアーティストは数多く存在する。
代表曲として「サティスファクション」「一人ぼっちの世界」「黒くぬれ!」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」「ルビー・チューズデイ」「夜をぶっとばせ」「悪魔を憐れむ歌」「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスをころがせ」「悲しみのアンジー」「ミス・ユー」「スタート・ミー・アップ」など、数多くのヒット曲がある。また、全世界でのアルバムの売り上げは2億枚を超える。
ザ・ローリング・ストーンズ
ザ・ローリング・ストーンズ (英語: The Rolling Stones) は、イギリスのロックバンド。1962年4月のロンドンで、ブライアン・ジョーンズ、イアン・スチュワート、ミック・ジャガー、キース・リチャーズによって結成、その後間もなくビル・ワイマンとチャーリー・ワッツが参加した。
結成当初のリーダーはジョーンズであったが、後にジャガーとリチャーズがコンビで作曲を行い、グループをリードするようになった。1969年、ジョーンズは体調不良と法律問題のためバンドへの貢献が減少しツアーへの参加もできなくなり、バンドを脱退、その3週間後にプールで溺死した。ジョーンズの後任としてミック・テイラーが加入、1974年に脱退するまで活動を続けた。その後、ロン・ウッドが加入する。ワイマンは、1993年にバンドを脱退、後任としてダリル・ジョーンズがベースを担当するようになるが、正式メンバーとしては加入していない。スチュワートは、1963年に公式メンバーから外されるが、バンドのロードマネージャーを続け、1985年に死去するまでピアニストとしてツアーやレコーディングに参加した。1982年以降は、チャック・リーヴェルがバンドのキーボードを担当している。
1960年代前半から現在まで半世紀以上、1度も解散することなく第一線で活躍を続ける、ロック界の最高峰に君臨するバンドである。エアロスミス、プライマル・スクリームやジェット、日本では萩原健一とテンプターズ、忌野清志郎とRCサクセション、鮎川誠、Charなど、ローリング・ストーンズに影響を受けたアーティストは数多く存在する。ストーンズは労働者バンドというイメージが強いが、ミック・ジャガーとブライアン・ジョーンズは中流階級の出身である。
ストーンズは当初ヨーロッパでの人気が高まり、間もなくブリティッシュ・インヴェイジョンの一波として北米での成功を収めた。イギリスでは22作のスタジオアルバム(アメリカでは24作)、11枚のライブアルバム(アメリカでは12作)、多くのコンピレーションをリリースし、現在までの全世界での売り上げは2億枚を超える。『スティッキー・フィンガーズ』(1971年)はその後アメリカで8連続No1となるアルバム群の最初の1枚であった。最新作の『ア・ビガー・バン』は2005年にリリースされた。1989年にロックの殿堂入りした。
ストーンズの出現は、最初のアーバンブルースの世界的な人気の高まりの象徴の一つであった。バンド名はシカゴブルースの巨匠、マディ・ウォーターズの”Rollin’ Stone”にちなんで、当時リーダーであったジョーンズが命名した。ストーンズの活動継続と関連に関して評論家のロバート・パーマーは、彼らは「より短命なポップ・ファッションが現れたり消えたりしている」間、「リズム・アンド・ブルースとソウル・ミュージックの中で伝統的な真実に根ざしている」ことによると語っている。初期のレパートリーではリズム・アンド・ブルースとブルースのカヴァーが多くを占めていたが、その中にはいつもロックンロールが含まれていた。
代表曲として「サティスファクション」「一人ぼっちの世界」「黒くぬれ!」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」「ルビー・チューズデイ」「夜をぶっとばせ」「悪魔を憐れむ歌」「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスをころがせ」「悲しみのアンジー」「ミス・ユー」「スタート・ミー・アップ」など、数多くのヒット曲がある。
ローリング・ストーン誌の「最も偉大なアーティスト100」にて4位。
ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」にて5位。
ストーンズ・ストーリー
1950年代初め、キース・リチャーズとミック・ジャガーは幼なじみであり、双方の一家が引っ越すまでダートフォードのウェントワース・プライマリースクールでの級友であった。1960年、シドカップ・アートカレッジの学生であったリチャーズとロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの学生であったミックがダートフォード駅で再会する。ミックが持っていたチャック・ベリーとマディ・ウォーターズのレコードで、お互いの興味が明らかになって友情が復活し、ディック・テイラー(後にプリティ・シングスのメンバーとなる)を加えてのバンド「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」結成につながる。3人はアーリング・ジャズクラブでアレクシス・コーナーの「ブルース・インコーポレイテッド」のステージにゲスト出演していたブライアン・ジョーンズのスライドギターを目の当たりにして衝撃を受ける。ブルース・インコーポレイテッドには、後にストーンズのメンバーとなるイアン・スチュワートとチャーリー・ワッツも参加していた。
イアンは練習場所を見つけ、ブライアンと共に加入し、バンドはシカゴ・ブルースを演奏するようになった。名前も決定していないバンドはミック、ブライアン、イアンに加え、ミックが強要して加えたキースと共に最初のリハーサルを行った。リハーサルには、ギタリストのジェフ・ブラッドフォードとヴォーカリストのブライアン・ナイトも参加したが、2人はミックとキースが好むチャック・ベリーやボ・ディドリーの曲を演奏することに異論を述べ、バンドへの加入を拒否した。1962年6月のラインアップはミック、ブライアン、キース、イアン、ディック、及びドラマーのトニー・チャップマンであった。キース曰く、ブライアンが「ジャズ・ニュース」紙との電話の間にバンド名を決定したという。バンドの名前を尋ねられたブライアンは、床にあったマディ・ウォーターズのレコードを見て、その中の1曲「ローリン・ストーン」をバンド名にした。
1962年7月12日、バンド名はマーキー・クラブそのままに「ザ・ローリン・ストーンズ The Rollin’ Stones」として最初のギグを行った。
ラインナップはミック、キース、ブライアン、ピアノにイアン、ベースにディック、ドラマーはミック・エイヴォリー(後にキンクスに加入)であった。ブライアンとイアンはシカゴ・ブルースを演奏したがったが、ミックとキースが好むチャック・ベリーやボ・ディドリーの演奏にも同意した。ビル・ワイマンは1962年12月に加入し、チャーリー・ワッツは翌月の1963年1月に説得されて加入、バンドのリズム体が確定した。ビルがメンバーに引き込まれた理由が、「当時、大出力のベースアンプを所有していたから」という、ジョーク交じりの他メンバーのインタビューもあった。当時のマネージャーであったジョルジオ・ゴメルスキーは、クロウダディ・クラブに日曜日の午後のステージを固定した。ゴメルスキーはクロウダディ・クラブが「ブルースの国際的なルネッサンス」の引き金となったと語った。マージー・ビーツ・ブームの到来と共に、ゴメルスキーはクロウダディでのショーを「スウィンギン・ロンドン」の到来の有力な側面と記した。
ビートルズのパブリシストであったアンドリュー・ルーグ・オールダムがバンドのマネージャーに就任したが、彼は19歳とバンドのメンバーより若く、エージェントのライセンスを取得するのが不可能であった。従って、アンドリューの母が息子に代わってサインをし、オールダムとベテランのブッキング・エージェントであるエリック・イーストンの間の協力関係が築かれた。ゴメルスキーはバンドとの契約書を交わしておらず、オールダムがマネージャーになることは相談されなかった。オールダムはバンド名の綴りを “The Rollin’ Stones” から “The Rolling Stones” へ変え、リチャーズの姓も「もっとポップに見えるから」と「リチャード」と変えさせた。スチュワートはオールダムの構想に合わず、ワイマンによれば「かわいくてやせっぽちの長髪の少年は1963年5月にメンバーから外されロードマネージャーとなり、1985年に死ぬまでバンドのピアニストを担当した。」とのことであった。
彼らは新しい演奏、作曲とレコーディングの完全なコントロール、マスターテープの所有権に対するロイヤリティとして当時の典型に対して三倍の額を得ることができた。またデッカとの契約でオールダムはデッカのスタジオでは無くリージェント・サウンド・スタジオを使わせることにした。リージェントはモノラルの設備で、音響処置のため天井は卵ケースが貼り付けられ、都合の良いスタジオとなった。オールダムはレコーディング経験はほとんど無かったがストーンズのプロデューサーとなり、リージェントについて「音が漏れ出て、楽器から楽器へ、正しい方法で」音楽が作り出される「雑音の壁」と言った。リージェントの使用料は低額で、バンドは当時一般的であった3時間分を予約する代わりに、長期間にわたってレコーディングや練習を続けることができた。イギリスでのファーストアルバムでは全ての曲がリージェントで録音された。
オールダムはストーンズが独立スタジオを使用していることを音楽雑誌に宣伝し、EMIに管理されたビートルズよりも「独立」した存在であることをアピールした。オールダムは「普通の人たち…スタジオでは男たちのために汗をかく。」と語っている。オールダムはイギリスのファーストアルバムでは微笑まないメンバーの写真を使い、「あなたの娘をストーンズと結婚させたいか?」という挑発的な見出しを載せ、結局ビートルズの不快な対照としてバンドを宣伝することを止めた。オールダムはバンドに同じスーツを用意したが、メンバーは公式の場にカジュアルな服装で現れるのに戻った。ビルによれば、「俺たちの評判とイメージが悪ガキだってのは後からやってきた。それは完全に偶然で、アンドリューが仕込んだ物じゃない。彼は単にそれを徹底的に利用しただけさ。」と語っている。
デビューシングル、チャック・ベリーのカバーである「カム・オン」は1963年6月7日にリリースされた。ストーンズは同曲をライブで演奏するのを拒否し、デッカは宣伝の広告看板を1枚だけ買い上げた。オールダムの指示でファンクラブの会員がシングルを購入し、「カム・オン」はイギリスのシングルチャートで21位に上昇した。シングルがチャートインしたことでバンドはロンドンの外で演奏する機会が与えられ、7月13日にミドルズブラのアウトルック・クラブでホリーズと共演することとなる。その年の後半にオールダムとイーストンは、ボ・ディドリー、リトル・リチャード、エヴァリー・ブラザースといったアメリカのミュージシャン達をサポートする初のUKツアーを計画した。この1963年秋のツアーは経験の少ないバンドにとってステージの「トレーニンググラウンド」となった。
このツアーの間にストーンズはセカンドシングル、「彼氏になりたい」を録音した。この曲はレノン・マッカートニーによるもので、イギリスで12位を達成した。3枚目のシングル、バディ・ホリーの「ノット・フェイド・アウェイ」は、1964年2月にリリースされ、3位を記録した。
オールダムの提案でミックとキースは共同で曲を作り始めた。最初の曲を彼は「めそめそした模倣」と評した。曲作りのペースが進まなかったため、ファーストアルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』(アメリカでは『イングランズ・ニューエスト・ヒットメーカーズ』)の収録曲はカバーが大半で、ジャガー・リチャーズのオリジナルは「テル・ミー」のみであった。また、2曲のクレジットは「ナンカー・フェルジ」と記載された。これはバンド全員のペンネームであった。
1964年6月に行われた最初のUSツアーは、ビル・ワイマンによれば「災害」であった。「俺たちが到着したとき、俺たちにはそこでのヒットレコードもその他の物も持っていなかった。」ツアーはそのほとんどがガラガラという状況であったが、ストーンズは積極的にメディアへの露出・ライヴ活動を行った。ディーン・マーティンのバラエティショー「ザ・ハリウッド・パレス」では、マーティンはバンドの演奏と髪型をからかった。このツアーの間にバンドはシカゴのチェス・スタジオで2日間のレコーディングを行い、マディ・ウォーターズを含む多くのミュージシャンから大きな影響を受けている。これらのセッションで録音された曲には、初のイギリスナンバー1となったボビー・ウーマックのカバー、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」も含まれた。アメリカでの成功が本格化していない頃、本国イギリスならびにヨーロッパではすでに人気が高まっており、イギリスではファーストアルバムが12週連続No.1に輝いている。
1964年8月にはオランダのスヘフェニンゲンでコンサートを行うが、観客が乱闘を始めたため約15分で中止となった。
1964年にリリースされた『T.A.M.I.ショー』ではジェームス・ブラウン & ザ・フェイマス・フレームスに続いて収録された。ミックは2003年に「俺たちは実際にはジェームス・ブラウンの後には演奏していないよ。なぜならそれぞれのセクションの撮影の間には1時間の間があったからなんだ。それにもかかわらず、彼はそのことにすごくイライラしていた…」と語っている。10月25日にバンドは「エド・サリヴァン・ショー」に出演した。その際に巻き起こした騒動で、サリヴァンは以降彼らの出演を禁止したが、後に再び出演している。アメリカでのセカンドアルバム『12×5』はこのツアーの間にリリースされている。本作もファーストアルバム同様に大半の曲がカバーであったが、オリジナル曲も増加した。
イギリスでの5枚目のシングル、ウィリー・ディクスンのカバー「リトル・レッド・ルースター」は1964年11月にリリースされ、2枚目のイギリスNo.1となる。これはブルース曲として初のNo.1であった。アメリカでのディストリビューターであるロンドン・レコードは「リトル・レッド・ルースター」のシングルリリースを拒否した。ロンドンは1964年12月にジャガー・リチャーズのオリジナル曲「ハート・オブ・ストーン c/w ホワット・ア・シェイム」をリリースした。「ハート・オブ・ストーン」はアメリカで19位となった。
The Rolling Stones
The Rolling Stones No.2
On Air
The Rolling Stones – Live in Munster, Germany – September 1965.
Rolling Stones Around and Around
THE ROLLING STONES Around & Around 1964
The Rolling Stones – Time Is On My Side