1959年(昭和34年)の3月9日、ニューヨークで開催された国際おもちゃフェアでアメリカの玩具メーカー・マテル社がバービー(Barbie)の着せ替え人形を発売した。
初期のバービー人形は日本で製造されていた。当時、日本はアメリカに比べ人件費が安く、繊維産業が盛んであり人形本体と衣装とをまとめて発注できるという理由から注目され、玩具問屋と小売を営む株式会社国際貿易との交渉から日本生産が決まった。
発売当時、アメリカで売られていた着せ替え人形が2ドル台だった中で、「安かろう悪かろう」と言われていた日本製の人形に3ドルの価格を付けて販売したため物議をかもした。おもちゃ業界からは否定的な目で見られていたが、ファッショナブルで精巧なバービー人形は子供たちに支持され、爆発的に売れた。
1970年代以降は東南アジアのインドネシアなどに、1980年末期から中国での生産にシフトしている。
現在、150以上の国や地域で販売され、着せ替え人形(ファッションドール)として世界一のシェアを誇っている。1999年(平成11年)の40回目の誕生日には、ニューヨークのウォール街がバービーのテーマカラーであるピンク色一色になった。
バービー人形は常に最新のトレンドを反映し、新しい感覚を取り入れながら、いつの時代もすべての女の子の憧れとして活躍の場を広げている。
バービーについて
1959年3月にアメリカのマテル社から発売された。同社の共同創業者一人であるポーランド系ユダヤ人のルース・ハンドラーが家族でヨーロッパを旅行中スイスを訪れた際目に留まったセクシードール「リリ(Lilli)」を娘のバーバラへの土産に購入したことが元になっている。そのため、極端なプロポーションを持っている)。
初期のバービーは日本で製造されている。当時、日本はアメリカに比べ人件費が安く、繊維産業が盛んであり人形本体と衣装とをまとめて発注できるという理由から注目され、玩具問屋と小売を営む(株)国際貿易との交渉から日本生産が決まった。(株)国際貿易は取引先で現在も着せ替え人形製造の中心をになう企業の山一商店・中嶋製作所・セキグチなどに依頼しマテル社の高度な要求に応えてバービーの生産に携わった。1970年代以降は東南アジアのインドネシアなどに、1980年末期から中国での生産にシフトしている。
歴史
マテル社は1945年に額縁メーカーとして発足し、1950年代に玩具製造業へ進出、新たな女児用人形を考案中だったルース・ハンドラーはこのリリ(Lilli)に注目し、構想を固めるとジャック・ライアンらと開発を進め、1957年7月ジャック・ライアンとデザイナーのフランク中村を東京に派遣し、(株)国際貿易と製造に向けて交渉を行った。契約は成立したが、マテル社の広範な要求から複数の製造メーカーとの協力を決め、試作に入った。高度な製品精度要求には製造工程や量産技術に改良と研究余地が多く存在し、量産着手までは難航した。
1959年3月9日に発売開始。アメリカで売られていた着せ替え人形が2ドル台だった中で、『安かろう悪かろう』と言われていた日本製の人形に3ドルの価格を付けて販売したため物議をかもした。おもちゃ業界からは否定的な目で見られていたが、ファッショナブルで精巧なお人形は子供たちに支持され、爆発的に売れた。アメリカ国内の支持によって原典となり、ブーム退潮で製造を打ち切り休眠中だったリリ(Lilli)をパテントを含めた権利を1964年に買収し、海外ヨーロッパなどの販売強化した。
1967年には、腰をひねることができる「ツイスト・バービー」にモデルチェンジした。
ただし、日本においては販売不振から撤退を余儀なくされた。その後、和製バービーを経て、現在ではマテル社の日本法人から発売されている。
1980年代半ば以降は、大人のコレクター向けの商品が発売されるようになる。
1999年、ピクサー社のフルCGアニメーション『トイ・ストーリー2』にバービー人形が登場する。次作である2010年の『トイ・ストーリー3』にも再び出演したほか、こちらにはケンも登場。そしてそれに続くスピンオフ作品『ハワイアン・バケーション』では、バービーとケンがW主演を果たした。これらピクサー作品における声優は、バービー役は、英語版がジョディ・ベンソン、日本語吹き替え版が高橋理恵子。ケン役は、英語版がマイケル・キートン、日本語吹き替え版が東地宏樹。
現在までの全世界での販売数は10億体を超えるといわれる。
バービー人形のハックと手作り品12個/飛行機に乗った妊婦さん人形
エピソード1: バービーのクローゼット