1919(大正8)年5月14日、現在使用されているけん玉の原型『日月ボール』が考案され、実用新案登録されました。
考案者は広島県呉市の江草濱次氏で、木工ろくろ技術や木工玩具の生産技術が盛んな広島県廿日市市を自ら訪れ、イメージを形にしてもらったのが始まりとされています。
けん玉について
「けん玉」の名前は、十字状の「けん(剣)」と穴の空いた「玉」でできた玩具であることに由来する。漢字で書くと、「剣玉」「拳玉」「剣球」などがある。現在では、「KENDAMA」として世界的に認知されるようになった。
「日月ボール」の考案者である江草は、木工ろくろ技術と木工玩具の生産地として有名な広島県廿日市市(はつかいちし)を訪れ、「日月ボール」の製造を依頼した。それ以来、廿日市で多くのけん玉が作られ、けん玉文化がつくられてきた。このことから、廿日市市は「けん玉発祥の地」とされ、「けん玉ワールドカップ」が廿日市市にて開催される。
けん玉の歴史
木製の棒や玉、リングなど、2つのものを糸または紐で結び、一方を引き上げまたは振り、もう一方に乗せる・穴を突起物にはめるような玩具は昔から世界中に存在する。例えば日本のアイヌ民族のウコ・カリ・カチュ、アメリカの五大湖周辺のインディアンに伝わっているジャグジェラ、エスキモーに伝わるアジャクゥァクなどである。その中でフランスのビルボケ(仏: bilboquet)は16世紀頃から子どものみならず貴族や上流階級の人々にも広く浸透し、国王アンリ3世も愛好したという記録も残っている。このようなことから、ビルボケがけん玉のルーツというのが一般的な説であるが、フランスのビルボケが日本に伝わった証拠となる文献は確認されていない。ビルボケやメキシコのバレロ(西: balero)などは現在も現地にて販売されている。イギリスでは、カップ&ボール(英: cup-and-ball)と呼ばれるけん玉に似ている物がある。
日本の文献で確認できるのは江戸時代からであり、1830年に喜多村信節が著した『喜遊笑覧(きゆうしょうらん)』に「安永六七年の頃拳玉と云もの出來たり」とあるのが知られており、当初は酒席の遊びであったと考えられる。ただしこの資料にはけん玉の図はなく文章で紹介されているだけだった。しかし、それよりも前の資料である1809年の『拳会角力図会』に「すくいたまけん」としてけん玉が図つきで紹介されていることが1981年に判明した。
明治時代になり、文部省発行の児童教育解説『童女筌』(どうじょせん、1876年)にて「盃及び玉」として紹介されてから子どもの遊びへと変化していった。やがて大正時代に入り、広島県呉市にて、従来のけん先と皿1つで構成されたけんに、鼓状の皿胴を組み合わせた「日月ボール」(または「明治ボール」)が考案され、現在のけん玉の形がほぼ完成した。日月ボールは1919年5月14日に実用新案として登録された。その後、木工の町として栄えていた同県廿日市市にて1921年頃より製造が開催された。
日本でのけん玉の大流行は1907年、1924年、1933年とされている。また、1977年は「けん玉ルネッサンス」といわれる爆発的な大流行となった。この流行には、皿胴に糸を出す穴を開けるなど合理的な設計がされた競技用けん玉が普及したことが影響している。
1968年にクラシックギタリストの新間英雄(深谷伊三郎の息子で立川志らくの父)が東京けん玉クラブを設立。
1975年には童話作家の藤原一生氏により日本けん玉協会が設立された。上述の新間英雄氏らが開発したS型けん玉をベースにした競技用けん玉を認定けん玉とし、その普及のほか、けん玉道級段位認定制度、全国競技会の運営等に取り組む。全国レベルでのルール統一がけん玉競技の公平性を担保し、普及・発展に寄与した。一方で、けん玉道として規定された型や持ち方、動作の細部に至るまでの徹底したルール化が原因でけん玉の遊び方が画一化し、各地の伝統的な遊び方が失われたり、創意工夫の土壌が失われてしまったのではないかという指摘もある。
21世紀初頭では、前述の「競技用けん玉」が一般的となったが、民芸品や単純な玩具としてのけん玉も各地に存在する。また、1945年まで日本が統治していた台湾でも、日月球(リーユエチュウ)や劍球(ジエンチュウ)と称してけん玉が遊ばれている。
2000年代後半、米国の若者が日本から持ち帰ったけん玉をヒップホップ系の音楽に合わせて様々な技を披露する様子を動画サイトに投稿、これがきっかけでけん玉はKENDAMAとして世界中で認知されるようになり、新たなスポーツやパフォーマンスとして認知されるようになり、海外で急速に広がりを見せるようになった。
けん玉検定の技(トリック)- ベーシック