
1867年(旧暦:慶応3年4月15日)民俗学者、博物学者の南方熊楠が紀伊の国和歌山にて誕生。
南方熊楠は、和歌山県が生んだ博物学の巨星。東京大学予備門中退後、19歳から約14年間、アメリカ、イギリスなどへ海外遊学。さまざまな言語の文献を使いこなし、国内外で多くの論文を発表した。研究の対象は、粘菌をはじめとした生物学のほか人文科学等多方面にわたり、民俗学の分野では柳田国男と並ぶ重要な役割を果たした。生涯、在野の学者に徹し、地域の自然保護にも力を注いだエコロジストの先駆けとしても注目されている。
和歌山県が生んだ世界的な博物学者、南方熊楠はアメリカやイギリスなどで14年におよぶ独自の遊学生活を送り、1900年(明治33)に帰国した。

以後、郷土和歌山県に住み、とくに1904年からは田辺に定住して、亡くなる1941年(昭和16)まで37年間をこの地で過ごした。

生涯、博物学や民俗学などを中心として研究に没頭し、英国の科学雑誌『ネイチャ-』や、議論を戦わせた英国の民間伝承雑誌『ノ-ツ・アンド・クィアリ-ズ』に数多くの論文を投稿し、国内では神社合祀反対運動や自然保護運動などにも論理と精力的な実践活動で尽力した。
偉大な在野の学者とあがめられ、また、たいへんな奇人ともみられていた(明治44年2月1日発行、『新公論』千里眼号「当世気骨漢大番附」にも東の前頭、筆頭で掲載された)反面、「南方先生」とか「南方さん」と呼ばれて、町の人々に親しまれた。
熊楠が残した業績とその履歴は、『南方熊楠全集』や『南方熊楠日記』など数々の資料や、研究者の手による書籍、論文により明らかにされてきたが、現在もその発掘、調査は続けられている。
変化の激しい現在、今まさに社会に求められている「人とのぬくもり」や「自然環境の保全」などに対する思いやりや、また「書物を読み、書き、知識を得る」ことなどの文字ばなれが進む今日、熊楠がさきがけて実践した、学問への前向きな姿勢や、エコロジ-などを、 広く多くの人々に影響を与え続けている。

日本民俗学の創始者である柳田國男は、自身も時代を超えた偉才であるが、同時代を生きた南方熊楠との交流を通じて、熊楠の尋常ならざる破格の能力に賛嘆を惜しまなかった。柳田は熊楠を評して「日本人の可能性の極限」と述べた。まことに熊楠は日本人の潜在能力を極限まで開花させた稀有の人物であった。

和歌山県白浜町の南方熊楠記念館前にある昭和天皇歌碑には、「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と刻まれている。
