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5月27日今日は何の日?:日本海海戦の日

投稿日:2020年5月26日 更新日:

連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮を執る東郷平八郎大将

1905年(明治38年)のこの日、日露戦争の日本海海戦において東郷平八郎(1848~1934年)が率いる日本海軍連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を撃滅し、日本が歴史的な大勝利を収めた。

この勝利により両国間のポーツマス講和会議への道を開いた。かつては勝利を記念して「海軍記念日」に制定され、この日には記念式典などが行われていた。しかし、1945年(昭和20年)を最後に、日本の太平洋戦争敗戦により第二次世界大戦後に廃止された。

同様に日露戦争で1905年(明治38年)3月10日に旧満州(中国東北地方)の奉天(現:瀋陽)を占領したことを記念して設けられた「陸軍記念日」も戦後に廃止された。

海軍記念日、陸軍記念日は廃止されたが、現在でもこの日に、神奈川県横須賀市の記念艦「三笠」において日本海海戦記念式典が毎年開催されている。三笠内の講堂で、国家斉唱、黙とうなどが、艦上では海上自衛隊音楽隊による演奏会が行われる。

戦艦「三笠」は、日露戦争において連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎らが座乗した。現在では、三笠公園内に記念艦として保存されている。その三笠公園内には東郷平八郎の銅像も建てられている。

 

日本海海戦

5月27日早朝、バルチック艦隊との決戦に出撃する連合艦隊(「朝日」艦上より)

連合艦隊出撃

三笠 (1905)
富士 (1897年6月)

「極秘 明治三十七八年海戦史」の記述に基づく。 5時5分頃、敵艦見ゆの報に接した第1・第2艦隊に「直ちに出港用意」が 下令され、6時頃、連合艦隊は出港を始めた。「三笠」は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ擊滅セントス。本日天氣晴朗ナレドモ浪髙シ」と打電した打電文後半は秋山真之が書き加えた)。6時35分に「三笠」は先頭に立ち、7時10分、「三笠」は加徳水道を抜け外洋に出た。

指揮統率

東郷平八郎(1907年〈明治40年〉)

東郷平八郎は、指揮能力、統率能力も秀でていた。最前線で敵の動向に瞬時に対応する陣頭指揮を行いつつ、幕僚を戦艦「三笠」で最も安全な司令塔に移動させ、自分が戦死した後の速やかな指揮権継承を保障するなどの指揮をとった。東郷は旅順封鎖の期間中も演習を行い、十分に艦隊の練度を上げていた。直前の黄海海戦などの戦闘経験と、その勝利によって士気も高かった。また、黄海海戦の教訓を十分に活かした。複数の艦を同時に自由に反転させるなどの様々な艦隊運動を思いのままに行うことができた。このため、逃げ回るバルチック艦隊の風上に常に回り込み、艦隊を維持しながら砲撃を加え続けることができた。

参謀による作戦の実施

連合艦隊司令部は第1艦隊参謀秋山真之、第2艦隊参謀佐藤鉄太郎を参謀に擁し、上層部もその意見を重用しつつ、組織的、有機的に、最善の判断を行うよう常に努力した。また、各艦隊司令官・各艦艦長は必要に応じて独自の判断で行動する能力を持ち、高速巡洋艦からなる第2艦隊には猛将といわれた上村提督が任命されるなど適材が適所に配属されていた。

 

 

 

 

戦術

七段構えの戦法

秋山真之参謀が立てたバルチック艦隊を全滅させるための迎撃作戦計画。「天気晴朗なれども波高し」の電報で、大本営は、

第一段が行われないことを理解した。実際には、

第二段と第三段のみでバルチック艦隊を殲滅した。第一段主力決戦前夜、駆逐艦・水雷艇隊の全力で、敵主力部隊を奇襲雷撃第二段艦隊の全力を挙げて、敵主力部隊を砲雷撃により決戦。丁字戦法が行われた。

第三・四段昼間決戦のあった夜、再び駆逐隊・水雷艇隊の全力で、敵艦隊を奇襲雷撃。高速近距離射法が行われた。

第五・六段夜明け後、艦隊の主力を中心とする兵力で、徹底的に追撃し、砲雷撃により撃滅第七段第六段までに残った敵艦を、事前に敷設したウラジオストック港の機雷原に追い込んで撃滅

敵前回頭と丁字戦法

連合艦隊は、以前より、海戦史上意表を衝く敵前大回頭と丁字戦法を実施することを考えていたが、黄海海戦での失敗を受け、艦隊決戦の基本方針を連携水雷作戦へ切り替えた。しかし、優速を活かし並航戦に近い浅い角度の丁字戦法を強いる砲撃戦の研究も続けた。

決戦当日は高い波浪条件により連携水雷作戦が不可能になった。反対に砲撃戦で舷側を打ち抜き浸水をもたらすことが容易となり、最終的に敵前回頭に続き、後者の戦法を採った。

当時の海戦の常識から見れば、敵前での大角度逐次回頭(1艦当たり2分余りを費やしての150度もの回頭)は危険な行為であった。実際にその後、旗艦であり先頭艦であった三笠は回頭定針直後から敵艦隊の集中攻撃に晒され、被弾48発の内40発が右舷に集中していた。しかし、連合艦隊はそれらの不利を折り込んで実行した。

  1. 確かに1艦当たり2分間余り無力になるが、敵の攻撃も回頭中はその将来位置が特定できず、砲撃がほぼ不可能(実際に、三笠への砲撃も回頭を終えるまで発砲していない)。
  2. ジャイロコンパスが発明されていない当時、1点に砲弾を集中し続けることは事実上できなかった。
  3. 当時は照準計の精度が悪く、第1弾が艦橋や主砲などの主要部に1発で命中することはごく稀であった。
  4. そのため、第1弾の着弾位置(水柱)から照準を修正して、第2弾からの命中を狙うことが多かった。しかしバルチック艦隊が使用していた黒色火薬は、発砲後にその猛烈な爆煙によって視界が覆われ、煙が晴れて第2弾を放つまでに時間が掛かる。すなわち回頭中に第2弾は飛来しないか、飛来するとしても慌てて撃つため命中精度が低い。
  5. バルチック艦隊が、それでも仮に一点に砲撃を集中したとしても、わざわざ砲撃が集中している場所に後続艦は突っ込まずに回避すればよい。
  6. バルチック艦隊は旗艦である三笠を集中砲撃するが、東郷としては最新鋭で最も装甲の厚い三笠に被弾を集中させ、他艦に被害が及ばないことを狙った。万一三笠が大破し、自らが戦死してでも丁字の状態を完成させることを最優先とした。

また、前述の旅順封鎖中などの艦隊訓練により東郷は、各艦の速度・回頭の速さなどの、いわゆる「癖」を見抜いており、これが敵前大回頭を始める位置を決めるのに役立った。

近年、「こうして敵前回頭は行われたが、実際の海戦ではその後の両艦隊は並列砲戦に終始し、今まで言われているような「日本側は丁の字もしくはイの字体形に持ち込み丁字戦法を行った」という事実はなかった。日本側はウラジオストクに逃げ込もうとするロシア艦隊に同航戦を強要し、かつロシア艦隊より前に出ることはできたが、相手の進路を遮断することはできておらず、このため現場のどの部隊も「日本海海戦で大回頭後に丁字(もしくはイの字)体形になった」とは思っておらず、一次資料の各部隊戦闘詳報にも公判戦史にも書かれていない。ところが海戦直後の新聞紙面で初めて「丁字戦法」のことが触れられ世間に広まり、一次史料にはどこにも書いていないのに、やったかのようになってしまった。」等、一次史料には丁字戦法と書かれていないとする評論が存在するが、一次資料である連合艦隊旗艦三笠の戦闘詳報には、2時14分「敵の前面を圧す」、36分「更に敵の前面を圧す」と繰り返したあと47分「敵艦隊に対し丁字形を描き」と書かれている(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09050252500、第1艦隊戦闘詳報 日露戦役 日本海海戦(防衛省防衛研究所)」)

航路図上では敵前回頭後、明らかに右側に航路を取ることでロシア艦隊の頭を押さえる丁字戦法に近い状態になっている。

三六式無線電信機

秋山真之参謀は、無電に理解のないトップに3回も上申を繰り返し、木村駿吉博士の研究によって完成した三六式無線電信機を1903年(明治36年)に制式採用させた。しかも、島津源蔵が日本初の鉛蓄電池の開発に成功したため、三六式無線電信機は日本海海戦で十二分に活躍可能となった。当時、無線電信技術はグリエルモ・マルコーニが1894年頃に発明したばかりだったが、日本海軍は、いち早く世界トップレベルの通信力を整備したのである。バルチック艦隊の司令部はなぜか無線妨害を行わなかった。三六式無線電信機は、信濃丸によるバルチック艦隊発見の報告や、戦闘中の各艦の情報交換に活用され、戦況を有利に導いた。この三六式無線電信機は安中電機製作所(現アンリツ)の製品であり、蓄電池は島津製作所の製品、受信機の継電器はイギリス製であった。

一方、ロシア側ではマルコーニとほぼ同時期にアレクサンドル・ポポフが無線電信を発明していたが、海軍上層部が先見性に欠けていたために普及が遅れていた。この無線電信の分野でも日露両国は明暗を分けることとなった。

無線通信を駆使した日本海軍の戦術は、現代ではネットワーク中心の戦いの初適用例とされる

 

日本海海戦その影響

当時鎖国が解けてから50年ほどしか経っておらず、列強と異なり植民地もない、欧米から遠いアジアの小さな新進国と見られていた日本の、大国ロシアに対する勝利は世界を驚かせた。また海戦の結果、極東海域における日本海軍の制海権が確定した。ロシア軍にとっては、満州で対峙する日本軍の補給を断つことで戦争に勝利できる可能性が消滅した。1905年3月の奉天会戦でロシア陸軍主力の撃滅に失敗した日本にとって海戦での決定的勝利は和平交渉の糸口となり、ポーツマス講和会議への道を開くことになり、その後の列強五大国入りに繋がった。しかし、あまりに劇的かつ英雄的なこの勝利の経験が以後の日本海軍から戦略的柔軟性を奪い、第二次世界大戦において航空機の有効性をいち早く見出しながら、大艦巨砲主義による決戦思想から脱却しきれずに敗北を重ねる遠因ともなった。

ロシア側の6,000名以上の捕虜は、多くが乗艦の沈没により海に投げ出されたが、日本軍の救助活動によって救命された。また対馬や日本海沿岸に流れ着いたものも多く、各地の住民に保護された。日本は戦時国際法に忠実であり、国際社会に日本は文明国であるとアピールするためにも戦時法遵守が末端の小艇の水兵にまで徹底されていた。ロシア兵捕虜は、日本国民が戦時財政下の困窮に耐える中、十分な治療と食事を与えられ、健康を回復し帰国した。軍法会議での処罰を恐れる士官は日本にとどまることもできた。日本の戦時国際法の遵守には世界各国から賞賛が寄せられた。

ロジェストヴェンスキー

負傷し捕虜となったロジェストヴェンスキーは長崎県佐世保市の海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった。病室に入るとロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう、枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて様子を気遣いながらゆっくり話し始めた。この時、極端な寡黙で知られる東郷が、付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、苦難の大航海を成功させたにもかかわらず惨敗を喫した敗軍の提督を労った。ロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ、涙を流した。ロジェストヴェンスキーは回復して帰国し、1906年軍法会議にかけられたが、戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして、無罪となり60歳まで生きた。

日本では、5月27日は海軍記念日に制定された。海軍記念日は1945年(昭和20年)を最後に廃止されたが、現在でも日本海海戦記念式典が毎年開催されている。2005年(平成17年)5月には対馬市、横須賀市などでそれぞれ日本海海戦100周年記念の式典や大会が開催され、対馬市では海戦後初の合同慰霊祭が行われた。

ニューヨーク・タイムズは日本海海戦で「日本艦隊がロシア装甲艦12隻を沈めた」の一報が届いたとき、黄色人種が白人に勝つはずはない、一報が間違っていると断じて「ロシア艦の水兵が反乱を起こしキングピンを抜いた」という報道をした。

軍艦三笠の今

三笠は世界で現存唯一の前弩級戦艦である。敗戦後の荒廃により、本来の状態で残る部分は少なく、砲塔や煙突、マストなどは複製され、主砲はコンクリート製で砲塔と一体化して砲身の下から支柱で支持し、甲板の大半も溶接工法で復元するなど、戦後に大きく修復された。下甲板以下はワシントン軍縮条約に基づきコンクリートや土砂で埋められており、艦内の見学範囲は上甲板と中甲板だが資料展示室や上映室などが設けられ、艦後部の一部を除いて軍艦の様相はうかがえずに軍艦形状の資料館となっている。甲板の一部に現役軍艦当時のままのチーク材や、トイレットルームのタイル床、奇跡的に盗難を免れた錨と鎖およびアンカークレーンが残る。先述のチーク材が残る通信室付近一帯の鋲接構造は、戦後に溶接で復元された箇所を除いて当時の遺構である。船首にあった菊花紋章は1987年まで当時の状態で残されていたが現在は復元品に交換され、本体は艦内で公開保存されている。

平素は観覧料が必要であるが、成人の日に新成人のみ観覧が無料となる。

 

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