1689年5月16日(旧暦:元禄2年3月27日)に、松尾芭蕉が弟子の河合曾良とともに奥の細道への旅に出発したことにちなんで、旅を愛する作家や芸術家などによって構成されている日本旅のペンクラブが記念日に制定。
隅田川から日光街道を北へ進み、下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、全行程約600里(約2400km)に及ぶ徒歩の旅であった。芭蕉は体が弱かったため困難も多かったが、2年後の1691年(元禄4年)に江戸に帰った。
『奥の細道』とも表記されるが、1702年(元禄15年)に刊行された原題名の『おくのほそ道』が正式とされ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて『おくのほそ道』と表記されている。
記念日は、せわしない現代生活の中で忘れがちな「旅の心」を大切にし、そして「旅人」とは何かという思索をあらためて問いかけることが目的。「日本旅のペンクラブ」では、「旅の日」川柳の募集と大賞選定などの活動を行っている。
奥の細道
夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと):岩手県平泉町
閑さや岩にしみ入る蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県・立石寺
五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町
荒海や佐渡によこたふ天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ):新潟県出雲崎町
西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた。この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。特に金沢で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった。また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした。
芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600里(約2,400km)の旅を終えた。その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。12月には京都に入り、年末は近江義仲寺の無名庵で過ごした。
『猿蓑』と『おくのほそ道』の完成
元禄3年(1690年)正月に一度伊賀上野に戻るが、3月中旬には膳所へ行き、4月6日からは近江の弟子・膳所藩士菅沼曲翠の勧めにしたがって、静養のため滋賀郡国分の幻住庵に7月23日まで滞在した。この頃芭蕉は風邪に持病の痔に悩まされていたが、京都や膳所にも出かけ俳諧を詠む席に出た。
元禄4年(1691年)4月から京都・嵯峨野に入り向井去来の別荘である落柿舎に滞在し、5月4日には京都の野沢凡兆宅に移った。ここで芭蕉は去来や凡兆らと『猿蓑』の編纂に取り組み始めた。「猿蓑」とは、元禄2年9月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠み、巻頭を飾った
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 (はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)
に由来する。7月3日に刊行された『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』が収録されている。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった。
芭蕉は10月29日に江戸に戻った。元禄5年(1692年)5月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住んだ。しかし元禄6年(1693年)夏には暑さで体調を崩し、盆を過ぎたあたりから約1ヶ月の間庵に篭った。同年冬には三井越後屋の手代である志太野坡、小泉孤屋、池田利牛らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集した。これは元禄7年(1694年)6月に刊行されたが、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた『おくのほそ道』を仕上げて清書へ廻した。完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵した。
おくのほそ道 松尾芭蕉|全文朗読