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6月12日今日は何の日?:桶狭間の戦い

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1560年6月12日、尾張国(現:愛知県の西部)桶狭間で、今川義元と織田信長による合戦

桶狭間の戦い

が起こりました。

約2万5千とも言われる大軍を率いていた駿河(現:静岡県の中部あたり)の戦国大名・今川義元が、織田家領だった尾張国を侵攻していた際の出来事で、織田信長が約2千の兵だけで今川方本陣を強襲し、見事今川義元を討ち取ることに成功。

当時権勢を誇っていた今川義元を若武将が破ったとあって、「桶狭間の戦い」での勝利は、織田信長の名が一気に全国へと知れ渡る契機となりました。

また、桶狭間の戦いで織田信長が行った奇襲は、『日本三大奇襲』のひとつとして数えられております。

 

合戦以前の情勢

今川義元、浮世絵(歌川国芳)

15世紀末、駿河国の今川氏親は勢力を拡大し、今川義元は駿河・遠江に領国を形成する。また、甲斐国武田氏、後北条氏と甲相駿三国同盟を締結。西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ろうとしていた。

尾張国では守護・斯波氏の家臣で清洲織田氏の家老である織田弾正忠家が成長。織田信定、織田信秀(信長の父)と二代にわたり領土を広げた。今川氏は尾張の一部にも勢力を持っていたが、信秀は天文7年(1538年)までに、尾張那古野城にいた今川氏豊を追放して城を奪い、今川氏との対立が始まる。

信秀は尾張東部と西三河を巡り、三河の有力国人である松平氏とも抗争していた。松平清康は東尾張侵攻中に家臣に殺害され(森山崩れ)、その子松平広忠も早世して弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていった。このため織田氏と今川氏は西三河と東尾張で対峙することになった。天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いでは織田方が勝利したが、天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いでは今川方が勝利。翌天文18年(1549年)には今川方が織田方の三河進出の拠点となっていた安祥城を攻略し、織田氏の三河進出は挫折に終わった。

さらに天文20年(1551年)には織田信秀が病没、後継の織田信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で 内紛が起こった。この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海城、笠寺城(それぞれ名古屋市緑区・南区)を守る山口教継が今川方に投降。加えて山口氏の調略によって尾張東南の大高城(愛知県名古屋市緑区大高)、沓掛城(豊明市沓掛町)の一帯が今川氏の手に落ちた。この4城は尾張中心部と知多半島を分断する位置にあった。愛知用水開通以前の知多半島は不毛地帯であった。知多は農業生産性および兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。しかしながら伊勢湾東岸を占める海運の要地であり、商業港である津島を支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。尾張西南の荷之上城に拠る服部友貞が今川方に与しており、荷之上城に近い蟹江城が弘治元年(1555年)に今川方に攻められ、伊勢湾の制海権が徐々に侵略されつつあった。

織田信長も今川氏の進出阻止や逆襲に動いた。天文23年(1554年)には知多の領主である水野氏を支援して今川方の村木砦を攻め落とした。笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦を築くことで圧迫し、城相互の連絡を遮断した。尾張東北では永禄元年~2年(1558年~1559年)、松平・今川氏が押さえる品野城(瀬戸市)を攻めたが、奪取はならなかった。

 

桶狭間の合戦

6月12日正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら30余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかし逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利に気を良くした。

13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。『信長公記』には「石水混じり」と書かれているため、雹だった可能性がある。織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。または、信長は「あの武者は疲れた兵」と敵軍が見えていて、今川方も中嶋砦からの信長の進軍を見ていて(『三河物語』)、奇襲ではなく雨も止んでからの正面から進軍しての戦闘だった(『信長公記』)。今川軍の総勢は2万人であったとされるが、当地は今川方からすれば支配地ではないためその中に兵站維持のための荷駄兵などが多分に含まれ、加えて今川方は兵を分散させていたこともあり義元を守る実兵力は5,000人から6,000人に過ぎず、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となった。

『信長公記』によれば、義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれる。義元は服部一忠を返り討ちにしたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られた。『改正三河後風土記』によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を喰い切ったという。

総大将である義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の勝利に終わった。

江戸時代に書かれたとみられる、名古屋市・長福寺所蔵の『桶狭間合戦討死者書上』によると、今川方の戦死者は2753人、織田方の戦死者は990人余りだった。また、書上によると、近江国佐々木方(六角氏)が織田方に参戦しており、援軍の死者は織田方のうち272人を占めたという。

合戦後の情勢と影響

今川家の実質的な当主の今川義元や松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。水軍を率いて今川方として参戦していた尾張弥冨の土豪、服部友貞は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。

大高城を守っていた松平元康(後の徳川家康)も戦場を離れ、大樹寺(松平家菩提寺)に身を寄せるがここも取り囲まれてしまう。前途を悲観した元康は祖先の墓前で切腹して果てようとした。その時、当寺13代住職登誉天室が「厭離穢土 欣求浄土」を説き、元康は切腹を思いとどまった。そして教えを書した旗を立て、寺僧とともに奮戦し、郎党を退散させた。以来、元康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は今川軍の城代山田景隆が捨てて逃げた三河岡崎城にたどりついた。

尾張・三河の国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日(7月14日)に沓掛城を攻略して近藤景春を敗死に追い込むなど、一帯を一挙に奪還していった。しかし鳴海城は城将・岡部元信以下が踏み留まって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城。駿河に帰る途上にある三河刈谷城を攻略して水野信近を討ち取った(ただし、味方の支援が受けられなかったために信近を討ったものの、刈谷城を落としきれずに帰国したとする説もある)。信近の兄の水野信元はただちに刈谷城を奪還したうえ、以前に今川に攻略されていた重原城も奪還した。

一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたうえ、別働隊の先鋒として戦っていたため難を逃れた岡崎の松平元康は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。しかし元康は義元の後を継いだ今川氏真が義元の仇討の出陣をしないことを理由に、今川氏から完全に離反し、永禄5年(1562年)になって氏真に無断で織田氏と講和した(織徳同盟)。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後は美濃の斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。

桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。甲相駿三国同盟の一角である今川家の当主が討ち取られたことで、北条家や武田家と敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎(上杉謙信)を大きく勢い付かせることとなり、太田資正や勝沼信元らが反乱を起こすなど関東諸侯の多くが謙信に与し、小田原城の戦いや第四次川中島の戦いに繋がっていった。さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄11年末には同盟は手切れとなり、武田氏による駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始される。信長と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており、武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった信長と距離を保っていたものの、永禄8年頃には信長養女が信玄世子の武田勝頼に嫁いでいるなど関係は良好となった。以後、信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏の西上作戦で関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした。

 

 

【合戦解説】桶狭間の戦い 織田軍vs今川軍 信長の一か八かの奇襲戦が成功!天下に信長の名を知らしめた戦い Battle of Okehazama

 

 

 

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