1985(昭和60)年6月15日、株式会社スタジオジブリ(初代)が東京・吉祥寺駅近くの第2井野ビルにて設立されました。
同年に公開された映画『風の谷のナウシカ』の製作会社だった「トップクラフト」を改組する形で組織されたアニメーション製作会社は、
- 宮﨑駿氏
- 野坂昭如氏
- 高畑勲氏
など日本を代表するトップアニメーターや監督が名を連ねておりました。
スタジオジブリとしての最初の長編アニメは、1986(昭和61)年公開の『天空の城ラピュタ』でした。
ちなみにジブリの名称は、『サハラ砂漠に吹く熱風』という意味の
ghibliギブリ
に由来し、第二次世界大戦中に使用されたイタリアの偵察爆撃機の名前でもあったことから、宮﨑駿氏が命名したとされております。
宮崎駿
宮﨑 駿(みやざき はやお、1941年(昭和16年)1月5日 – )は、日本の映画監督、アニメーター、漫画家。別名として秋津 三朗(あきつ さぶろう)、照樹 務(てれこむ)がある。映画などのクレジットタイトルでは宮崎 駿(みやざき はやお)と表記されることもある。
数千人の従業員を擁した一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の二男として、東京市で生まれる。幼児期に宇都宮に疎開、小学校3年生まで暮らしていた。1950年、小学校4年に進級時に東京都杉並区永福町に転居。
幼少時は身体が弱かったので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、手塚治虫や杉浦茂の漫画、特に福島鉄次の絵物語『沙漠の魔王』のファンという“漫画少年”でもあった。当時の進学校である東京都立豊多摩高等学校在学中の3年生の時に観た東映動画製作『白蛇伝』に感動し、アニメーションにも関心を持つようになる。学生時代に佐藤先生のアトリエでデッサンを独学で学び、印象派に影響されている。
学習院大学に進学し、児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志し漫画を描き続けていたが、アニメーションの世界へ進む事を決断する。学習院大学を卒業し、アニメーターとして東映動画に定期採用で入社し、動画などを手がける。当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。『ガリバーの宇宙旅行』のラストシーンが宮崎のアイディアで変更されるなど、早くから才能を現した。結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任し、アニメーターの待遇の改善に尽力する。1965年秋には、24歳で同じ東映のアニメーターの女性と結婚し、その後2人の男児をもうける。高畑勲・森康二・大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1965 – 1968年)を作り上げた。
1971年、高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社し、新企画『長くつ下のピッピ』を制作するためにAプロダクションに移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『ルパン三世』で宮崎にとって事実上の初監督の仕事を引き受ける。名義上は演出。半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた。「ピッピ」の経験を活かし、大塚、高畑、小田部らと子供向け映画『パンダコパンダ』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。
高畑、小田部とともにズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』の準備に入る。1974年TVアニメ、『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。
スタジオジブリ設立
1985年に徳間書店の出資を得てスタジオジブリを設立し、以後の制作の基盤とした。1986年の『天空の城ラピュタ』と1988年の『となりのトトロ』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を支えた。
また1986年頃、宮崎が推薦した押井守によるルパン三世劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井守を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている。
『魔女の宅急便』(1989年)は、当初は片渕須直監督により進められていたがスポンサーの意向により降板し宮崎が後を継いだ。本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けてジブリの労働環境を整えるため社員化を決定する。
『紅の豚』(1992年)は、もともと日本航空の機内で上映される中編として企画されたが、次第に構想が膨らみ、長編作品として公開された。
1997年に公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。
2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入308億円と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。
2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。
2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル 仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。
2013年に、自身の『風立ちぬ (宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表。
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