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7月9日今日は何の日?:鴎外忌

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明治・大正時代の小説家・翻訳家・陸軍軍医である森鴎外(もり おうがい)の1922年(大正11年)の忌日。

 

森鴎外について

1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国鹿足郡津和野町田村(現:島根県津和野町町田)で生まれる。本名は森林太郎(もり りんたろう)。森家は代々津和野藩の典医を務める。東京大学医学部を卒業。

1888年、プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と。前列左より河本重次郎、山根正次、田口和美、片山國嘉、石黑忠悳、隈川宗雄、尾澤主一。中列左から林太郎、武島務、中濱東一郎、佐方潜蔵、島田武次、谷口謙、瀬川昌耆、北里柴三郎、江口襄。後列左から濱田玄達、加藤照麿、北川乙次郎

陸軍軍医となり、1884~88年の間ドイツに留学する。ミュンヘン大学の「近代衛生学の父」と呼ばれるマックス・フォン・ペッテンコーファーに師事する。「近代細菌学の開祖」と呼ばれるドイツの医師ロベルト・コッホに衛生学を学ぶ。一方、ドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマンの美学に傾倒。

帰国後、ハルトマンの『審美論』を紹介(1892~93年)するかたわら、デビュー作の共訳詩集『於母影(おもかげ)』(1889年)、小説『舞姫』や『うたかたの記』(1890年)、デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの翻訳『即興詩人』(1892年)、文芸雑誌『しがらみ草紙』『めさまし草』の創刊などにより浪漫主義・理想主義の確立に貢献する。

日露戦争前後の沈黙を経て、小説『ヰタ・セクスアリス』(1909年)、『青年』(1910~11年)、『雁(がん)』(1911~13年)などを発表、夏目漱石と並ぶ反自然主義の巨匠と目される。大正時代には『阿部一族』(1913年)や『山椒大夫』(1915年)、『高瀬舟』(1916年)などの歴史小説に新しい分野を開き、『渋江抽斎』(1916年)他の史伝でその頂点を極める。

1916年(大正5年)、陸軍から引退した時は、現役の軍医として最高の陸軍軍医総監、陸軍省医務局長であった。1922年(大正11年)7月9日、腎萎縮、肺結核のために死去。60歳。現在の墓地は東京都三鷹市の禅林寺と出生地の津和野町の永明寺。森鴎外記念館は、津和野町、東京都文京区千駄木、ドイツ・ベルリンにある。

 

幅の広い文芸活動と交際

肩書きの多いことに現れているように、鷗外は文芸活動の幅も広かった。たとえば、訳者としては、上記の訳詩集「於母影」(共訳)と、1892年(明治25年)–1901年(明治34年)に断続的に発表された「即興詩人」とが初期の代表的な仕事である。「於母影」は明治詩壇に多大な影響を与えており、「即興詩人」は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、その本を片手にイタリア各地を周る文学青年(正宗白鳥など)が続出した。

戯曲の翻訳も多く(弟の竹二が責任編集を務める雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた。

ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」を作っており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない。

翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象になった。単なる訳者にとどまらない鷗外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、田山花袋にも影響を与えた。その鷗外は、上記の通り東京美術学校(現東京芸術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門などの審査員、帝室博物館総長や帝国美術院初代院長などを務めた。

交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、教師でもあった夏目漱石のように弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した鷗外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。

文学者・文人に限っても、訳詩集「於母影」は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鷗外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人を招いて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月まで続いた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)。

また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が鷗外)やらいてうや純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した。その鷗外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(「安井夫人」、戯曲「静」、「花子」、翻訳戯曲「ノラ」(イプセン作「人形の家」))。

晩年、『東京日日新聞』に連載した「澀江抽齋」「伊澤蘭軒」は読者および編集者からの評判が非常に悪く、なかでも「北条霞亭」は連載を途中で打ち切られるなど、その評価は必ずしも芳しいものではなかった(『東京日日』『大阪毎日』1917年10月30日-12月26日中止。続稿を『帝国文学』1918年2月-1920年1月。「霞亭生涯の末一年」を『アララギ』1920年10月-1921年11月。)。没後、新潮社と他二社とが全集18巻の刊行を引き受けたので、かろうじて面目が立った。1936年(昭和11年)、木下杢太郎ら鷗外を敬愛する文学者らの尽力によって岩波書店から『鷗外全集』が『漱石全集』と並んで刊行され、権威があると思われるようになった。

晩年の幸田露伴は鷗外について、「蓄財と出世にしか関心のなかった男」と酷評している。

 

 

森鴎外「舞姫」(朗読:高橋昌也)

 

 

 

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なぐ:50代のおじさんです。
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