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8月6日今日は何の日?:広島平和記念日(広島原爆忌)

投稿日:

1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが広島市上空にて世界で初めて原子爆弾『リトルボーイ』を投下。

広島に投下された原爆のキノコ雲。下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。エノラ・ゲイ乗員のジョージ・R・キャロン軍曹撮影。

原爆投下により市街は壊滅し、一瞬のうちに約20万人弱もの命が亡くなる惨状となりました…。

また、原爆を免れた付近の人々も、原子爆弾投下後に降る放射性をはらんだ特有の『黒い雨』の影響で健康被害を患うこととなりました。

『黒い雨』による被害の実態解明は今なお続いており、原爆が投下されたという歴史的悲劇から目を背けないために、

犠牲者の霊を慰め、世界平和を祈続ける

目的で記念日が制定されております。例年8月6日には、

広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式

平和祈念式典

が広島平和記念公園で催される他、市内の各河川では灯篭流しが行われるなど、各地で『原爆慰霊祭』が行われております。

 

アメリカ側視点

原爆投下命令

左:グローヴス、右:ロバート・オッペンハイマー

1945年7月25日、マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブスが投下指令書を作成し(しかし、それを大統領だったハリー・トルーマンが承認した証拠はない)、ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令官(戦略航空隊総指揮官)により原爆投下がなされた。

レスリー・グローブスが起草した原爆投下指令書

テニアン島

8月4日、B-29エノラ・ゲイ号は最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場に帰還した。翌8月5日21時20分、第509混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告した。

5日、第509混成群団司令部から作戦命令35号が発令された。

作戦命令35号 

ブリーフィングでポール・ティベッツ陸軍大佐(機長・操縦士)がエノラ・ゲイ(名前の由来になったのはティベッツの母親の名前)の搭乗員に出撃命令を伝えた。「今夜の我々の作戦は歴史的なものだ」

8月6日0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎である。0時51分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。

続いて1時27分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。

その離陸から2分後の1時47分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が、さらに2分後の1時49分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・イーブル号)の各1機のB-29が飛び立った。すなわちこの日、6機のB-29が原爆投下作戦に参加し、うち4機が広島上空へ向かっていたことになる。

テニアン島から広島市までは約7時間の飛行で到達できる。

エノラ・ゲイ乗組員。左からフィーヤビー・ティベッツ・バンカーク・ルイス。

 

広島上空

7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号である。7時15分ごろ、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。「Y3、Q3、B2、C1」(低い雲は雲量4/10から7/10で小さい、中高度の雲は雲量4/10から7/10で薄い、高い雲は雲量1/10から3/10で薄い、助言:第1目標を爆撃せよ)。

この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。

ストレートフラッシュ号は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。

8時過ぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった(当然、ラジオによる警報の放送もなかった)。

エノラ・ゲイ号

8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600フィート (9,632メートル)。投下に先立ち、原爆による風圧などの観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ降下させた。青空を背景にすると目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。この時の計測用ラジオゾンデを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、「原爆は落下傘に付けられて投下された」という流説があるが誤りである。一部のラジオゾンデは「不発の原子爆弾がある」という住民の通報により調査に向かった日本軍が鹵獲した。広島県安佐郡亀山村に落下したラジオゾンデは、原爆調査団の一員だった淵田美津雄海軍総隊航空参謀が回収している。また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。

8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点 (IP) に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度などの入力をし、投下目標 (AP) を相生橋に合わせた。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点に架けられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。

原子爆弾リトルボーイ(実物)

8時15分17秒、原爆リトルボーイが自動投下された。副操縦士のロバート・ルイスが出撃前に描いたとされる「爆撃計画図」によると、投下は爆心地より2マイル(約3.2キロメートル)離れた地点の上空であると推察される。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の影響を避けるために進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を急降下させた。

リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした。

左:原爆投下前 右:投下後

 

原爆被爆側の視点

8月6日の朝

8月6日は月曜。当時は週末の休みはなく、朝は8時が勤務開始であった。大半の労働者・徴用工・女子挺身隊、および勤労動員された中学上級生(1万数千人)たちは、三菱重工や東洋工業を始めとする数十の軍需工場での作業となった。

また建物疎開には、中学下級生(数千人)および一般市民の勤労奉仕隊(母親たち)や病気などの理由により徴兵されなかった男子らが参加した。動員は市内の他、近隣の農村からも行われた。建物疎開とは、空襲による類焼を食い止めるために建物の間引きを行う作業である。建物の破壊は軍が行い、瓦礫の処理を奉仕隊が行った。当然、青空の下での作業である。彼らは原爆の熱線を直接、大量に浴びることになる。

尋常小学校の上級生児童は1945年4月に行われた集団疎開で市を離れていた者が多かったが、下級生児童は市内に留まっていた。児童は各地区の寺子屋学校での修学となっていた。就学以前の幼児は自宅に留まっていた。

8月3日、4日と雨が降ったが、5日以降は高気圧に覆われて天候は回復した。

8月5日は深夜に2回空襲警報が発令され、その度に市民は防空壕に避難したため、寝不足の市民も多かった。この日、市街中心部では米の配給が行われ、市民は久しぶりの米飯の食卓を囲んだ。

8月6日の朝の気温は26.7℃、湿度80%、気圧1,018hPaであった。北北東の風約1メートル/秒が吹き、雲量8 – 9であったが、薄雲であり視界は良好だった。7時9分の空襲警報で市民は一旦は防空壕に隠れたものの、7時31分には警報解除されたため、外へ出て一日の活動を開始していた。

 

爆心地

1930年頃の広島市地図。中央上に広島城、そこから東に広島駅、その南方に宇品港がある。

爆心地である広島市細工町29-2の島病院(現島内科)は、産業奨励館の東側にある。8時15分、病院南西側の上空約600メートルで「リトルボーイ」は炸裂した。爆心地500メートル圏内では閃光と衝撃波がほとんど同時に襲った。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊、木造建築は全数が全壊した。島病院の建物も完全に吹き飛ばされ、院内にいた約80名の職員と入院患者全員が即死した。鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破したが完全な破壊は免れている。相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。

爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま遺骸を乗せて、慣性力でしばらく走り続けた。吊革を手で持った姿勢のまま死んだ乗客や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士もいた。そのなかで、爆心地からわずか700メートル付近で脱線し黒焦げ状態で発見された被爆電車(広島電鉄650形電車651号車)が、修理・改造され今も現役で、平和学習に用いられるなど残った物もある。

熱線により影が焼き付いた跡(広島瓦斯ガスタンク)

屋外にいた者は大量の熱線と放射線を浴びて即死し、屋内にいた者は家屋の倒壊に巻き込まれ、閉じ込められたまま焼死した。広島県燃料配給統制組合に勤めていた野村英三(当時47歳)が手記を残している。野村は爆発の瞬間に燃料会館(会館は島病院や産業奨励館の直近170メートルに位置している。現在でも建物が広島平和記念公園内に現存している)の地下室に書類を捜しに入っていて難を逃れた。野村の証言によると、一瞬で燃料会館内は暗闇に包まれ、手探りで這い出した屋外も同様に闇の中だった、半壊した産業奨励館の窓枠から炎が立ち上り、やがて全壊した中島地区の各所から炎が上がり始めたという。脱出に成功した同僚は8名いたが、その後の消息は分からなくなったとされる(大量被曝による急性放射線障害で間もなく全員死亡したのではと考えられている)。野村はその後猛烈な火と煙の中、中島町を北進し相生橋を経て西方面の己斐方面へ脱出、その後、高熱・下痢・歯茎からの出血などの放射線の急性症状で生死をさまようが一命を取り留め、爆心地の状況を知るほぼ唯一の生存者として、1982年6月に亡くなるまで貴重な証言を残している。

1945年の広島市地図。米軍作成。赤い斜線(濃い赤)の地域が全壊地域、赤い点(薄い赤)の地域が半壊地域である。地図の升目は1000ヤード(914.4メートル)である。

 

原爆による死亡者および戦死者

爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していった。

11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。1945年(昭和20年)の8月から12月の間の被爆で死亡した戦闘員と非戦闘員は、9万人ないし12万人と推定されている。

2019年11月27日に広島市が発表した調査結果によると1945年年末までの死亡者で氏名が確認されたのは89025人で、これを翌28日に報じた中国新聞では一家全滅や朝鮮人等の外国人が確認できないためではないかと推察している。

原爆が投下された際に広島市内にはアメリカ軍の捕虜十数名が収容されていたが全員が被爆死している。このアメリカ軍捕虜は7月28日に呉軍港空襲を行って戦艦「榛名」に撃墜されたアメリカ陸軍航空隊のコンソリデーテッド・エアクラフトB-24爆撃機数機(タロア号、ロンサムレディ号、その他)の乗組員である。彼らは憲兵隊司令部がある広島市に移送された直後の被爆であった。

河原町付近から東方向を撮影。中央に縦断する道がのちの平和大通り、その道左が中島町、その右が加古町。左上のサインはティベッツのもの。

 

被爆前の街並み鮮明に 広島原爆資料館が動画公開

 

原爆投下後の映像公開=旧ソ連調査団が撮影-広島平和記念資料館

 

【BBC】 広島の被爆者に対面したアメリカの大学生たちは

 

 

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