1862(文久2)年9月22日、アメリカ第16代 エイブラハム・リンカーン大統領によって
奴隷解放
の予備宣言が公布されました。
人種差別が蔓延している最中でも、早くから奴隷制度に反対していたリンカーン氏に対しては、
- 急進的な奴隷廃止を唱える者
- 奴隷制度廃止自体を反対する者
- 主張断行のために武力衝突も辞さない者
など多くの圧力が掛かるも、
会って直談するのが悪感情を一掃する最良の方法だと説き、話し合いによる人道的な解決の道を模索し続けました。
議会が南軍兵士の奴隷を解放(1862年7月)
1862年7月に、アメリカ合衆国議会は第2押収法(Second Confiscation Act)を提案し、 リンカーン大統領はそれに調印した。この法律は、連邦に反抗的な南軍兵士が保持する奴隷を解放する、というものであった。以下の文は、その法律の抜粋である。
第2節:これ以後、アメリカ合衆国の権威に反抗するような、またはその法律に反発するような反乱を起こしたり、始めたり、それに参加した者は、そしてそのような現存の反乱を助けたり、援助した者は、有罪と決められたならば、10年以下の懲役でもって、または10,000ドル以下の罰金でもって、罰せられた上、その者の奴隷は全て解放される。または、裁判所の判決によっては、懲役と罰金、両方の罰が課せられる。
第9節:次のような全ての奴隷たちは、連邦が得た戦争の捕虜と見なされ、永遠に奴隷の身から解放され、以後再び奴隷となることはない。合衆国の政府に反抗するような、またはその法律に反発するような反乱を起こしたり、始めたり、それに参加した者が主人である奴隷たち、そしてそのような現存の反乱を助けたり、援助した者が主人である奴隷たちで、その主人の元から逃げ出し、連合軍側の土地に避難した者、また、南軍の奴隷たちで、連邦軍の力によって南軍の兵士たちの手から確保・略奪された者、また、本来いた南軍の土地がその後連邦軍側に占拠された奴隷たち。
つまり、この法律によれば、誰でも連邦側に反抗したら持っている奴隷を解放しなければならない。この法律は、国内の奴隷制を完全に廃止した合衆国憲法第13修正とは違うものだが、議会の「南部連合軍側の奴隷たち全員を解放したい」という意思は、この法律によって明らかなものとなった。同様に、リンカーンの奴隷解放宣言は、彼のそのような意思を国民に明らかにしたものだった。
背景
南北戦争が開戦してからは、多数の奴隷たちが北軍の兵士として、自分たちの自由のために戦った。北軍が戦闘で占領した南軍の奴隷たちをどうするかについては議論がなされた。北軍の将軍たちの中にはその奴隷たちを解放するよう指令をした者もいたが、リンカーン大統領は最初、それを取り下げた。しかし、それまでの合衆国の法律では、北軍が確保した南軍の奴隷たちを、その後南側に明け渡さなければならないことになっていた。奴隷たちを完全に解放する段階でもなかったが、だからと言って南側に彼らを明け渡す訳にもいかなかった。このため、1862年3月13日に、連邦側の政府は、北軍の将軍たちが南軍に奴隷を明け渡すことを禁止した。こうして、1850年の逃亡奴隷法(Fugitive Slave Law)は無効になったのである(逃亡奴隷法は、逃亡中の奴隷を発見したら、かくまわずに主人に明け渡さなければならないとした)。1862年4月10日には、自分の奴隷を解放した者は政府から補助金が受け取れることを議会が宣言。コロンビア特別区の全ての奴隷は、1862年4月16日に解放された。同年6月19日には、連邦国全ての領土で奴隷制が禁止され、1857年の最高裁判所によるドレッド・スコット裁決は無効となった。ドレッド・スコット裁決では、合衆国の領土での奴隷制を規制する権利は議会にはない、という判決が下されていた。
リンカーン大統領自身も、奴隷制を廃止する法的な権利が自分にないことを明らかにしていた。それに、奴隷制を単純に廃止する訳にもいかなかった。その理由は、北軍の味方の州の中には、まだ奴隷制を容認している州もあった。そういう州は、奴隷制を廃止するために南軍と戦闘をしていたのではなく、連合側を連邦側に引き戻し、合衆国を再び統一するために戦っていたのである。また、この奴隷解放宣言は、議会の提案する法律や憲法修正条項のようなものと言うより、むしろリンカーン大統領の最高司令官という職務においての軍事的な指令であると言われている。さらには、奴隷解放宣言が憲法違反だったという意見もある。本来、軍隊の最高司令官には、軍隊の行動を監督する義務はあるが、新しい規則を制定する権利はない。また、奴隷解放宣言は、解放された元奴隷たちが、連邦軍隊に入ることを許可した。ただし、元奴隷たちの軍隊とその他の軍隊とは分けられていた。これによって、北軍は、新たな200,000人近くの黒人兵士たちを獲得し、南軍との戦いでは、さらに有利になった。
リンカーン大統領は1862年7月に、奴隷解放宣言について閣僚たちと討議していた。しかし、リンカーンは、南軍との戦争に勝ってから、その後にこの宣言を発表したいと思っていた。なぜなら、この宣言によって、連邦側の味方でありながら奴隷制を実施している州が、連邦側を脱退してしまう恐れもあったからだ。そうなれば、北軍が戦力を失い、南軍が戦力を得ることになりかねない。だから、南北戦争最大の決戦アンティータムの戦いで、北軍が、メリーランド州を侵略に来た南軍を倒した後、リンカーンは1862年9月22日に、奴隷解放宣言の予告版を発表したのである。
奴隷解放宣言が奴隷制に瞬時に大きな影響を与えたわけではないが、もともと南部連合軍の領土で後に連邦側が支配した地域では、奴隷制がコントロールされるようになった。境界線の州(デラウェア州、ケンタッキー州、メリーランド州、ミズーリ州、ウェストバージニア州)では、連邦軍に忠誠だったため、宣言の対象外となり、この宣言によって奴隷制が即時に廃止されることはなかった。国務長官ウイリアム・H・セワードは、奴隷解放宣言に関して「私たちの手の届かない地域に、奴隷を解放するよう命令することによって、そして、私たちが奴隷たちを自由にできる地域には彼らを留めておくことによって、私たちは奴隷たちへの思いやりを表します。」と言ってコメントした。メリーランド州、ミズーリ州、テネシー州、そしてウェストバージニア州は、それぞれ自主的に奴隷制を廃止した。その後、1865年に、合衆国憲法の第13修正が承認され、アメリカ合衆国全体で法的に奴隷制が廃止された。リンカーンは奴隷解放宣言を「戦闘に必要な処置」として、議会から与えられた暗黙の権威を活用して発表した。
即時の歴史的な影響
奴隷制度への即座な影響は少なかったものの、奴隷解放宣言は、北軍の南北戦争での目標を改め、はっきりさせた。北軍の目標は、もはや単に南軍を連合側に戻すだけでなく、奴隷制度を完全に廃止し「さらに完璧な合衆国」をつくることだった(アメリカ合衆国憲法前文には、憲法の目的が記されており、その中の一つが「完璧な合衆国をつくること」)。
しかし、宣言によって即座に解放された奴隷の数は少なかった。戦争中、主人のもとから逃避し、連邦の境界線内に逃げ込んだ奴隷たちは、連邦側にある専用の収容所に留まることとなった。その後、奴隷解放宣言が発布されたときには、もう彼らは自由だということを告げられ、収容所から解放された。
ジョージア州の海岸の近くに浮かぶシー・アイランドは、戦争開始の直後、連邦軍が占拠した。南軍の白人の兵士たちは後にその島から逃げたが、黒人の兵士たちはそこに残り、自給自足で生活した。奴隷解放宣言が発布されたときには、連邦海軍の将校たちが彼らにそれを読んで聞かせ、彼らがもう自由であることを伝えた。
軍隊の中では、奴隷解放宣言に対する意見が分かれた。納得できないとして反抗する兵隊たちもいた。これによって、軍隊を後にした兵隊たちもいた。その他では、この宣言が発布されたことに感動した兵士たちの中では、「合衆国と自由のために」というモットーを掲げはじめる部隊もあった。
南軍にとっては、奴隷たちは重要な「戦争のエンジン」の一部だった。奴隷たちは、食糧をこしらえたり、兵士たちの制服を縫ったり、線路を修理したり、農場や工場や鉱山で働いたり、防御用の壁を建てたり、病院などで労働したりした。連邦側に吸収されてからは、南部の地域中に、100万部もの奴隷解放宣言のコピーが行き渡り、さらに噂でも解放宣言のことが奴隷たちの間で広まり、その結果、数多くの奴隷たちが主人のもとを後にするきっかけとなった。