1936(昭和11)年9月25日、甲子園球場で行われた vs 阪神タイガース戦で、読売ジャイアンツの沢村栄治投手が
日本プロ野球史上初となるノーヒット・ノーラン
を達成しました。
沢村投手の豪快な投球フォームから繰り出される速球は『火の玉投手』という異名をとり、球速は160km / hキロを超えていたとする説も存在しております。
また、沢村投手は
- 1937(昭和12)年
- 1940(昭和15)年
にもノーヒット・ノーランを達成するなど、戦前のプロ野球最多勝記録を次々と塗り替える活躍で人気を博しました。
その後勃発した日中戦争の徴兵時に負った怪我が原因で野球人生は引退を余儀なくされるも、その活躍が称えられ、沢村投手のつけていた背番号「14」は、読売ジャイアンツの永久欠番となっている他、そのシーズンに活躍した投手へ贈られる『沢村賞』の名を冠しております。
沢村賞
正式名称:
沢村栄治賞投手部門における特別賞のひとつで、シーズンを通して
- 登板試合数目安
:25試合以上 - 完投試合数目安
:10試合以上 - 勝利数目安
:15勝以上 - 勝率目安
:6割以上 - 投球回数目安
:200イニング以上 - 奪三振数目安
:150個以上
のいづれか複数を達成した投手に贈られる賞。
沢村 栄治
全日本選抜
1934年の夏の大会終了後に京都商業を中退(現在の高校3年生に相当する年齢)。その年の11月に開催された読売新聞社主催の日米野球の全日本チームに参戦する。5試合に登板(4先発)した。中でも11月20日、静岡県草薙球場で開催された試合では、7回裏にルー・ゲーリッグにソロ本塁打を浴びたのみで、メジャーリーグ選抜チームを8回5安打1失点と好投した(スコアは0対1。ゲーリッグの一発が決勝打)。もっとも、これ以外の4試合では0勝3敗・防御率10.65(20回2/3で33失点・24自責点)と全く振るわず、草薙球場の試合を含めても、0勝4敗・防御率7.85(28回2/3で34失点25自責点)に終わった。しかし、この年の日本選抜対メジャーリーグ選抜の試合が日本の0勝16敗に終わったため、草薙球場での快投は現在でも日本で語り草となっている。もっとも、この試合でベーブ・ルースは、沢村を賞賛する一方で、「丁度バッターボックスに入って投手に面すると太陽の光源が真正面に見えるのでまぶしくて仕方がなかった」とコメントしている。なお、この試合のメジャーリーグ選抜の先発、アール・ホワイトヒルは、左腕であり球の出所が沢村と違うため参考程度にしかならないが、9回3安打完封だった。
その年の暮れ、全日本チームを基礎としたプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(東京巨人軍を経て現・読売ジャイアンツ)の結成(正式な設立は12月26日)に参加した。学校を中退してプロ入りしたのは、野球部員による下級生への暴行事件が明るみに出て、連帯責任で甲子園出場が絶望的になったためであった。等持院住職の栂道節が、同年大日本東京野球倶楽部専務取締役に就任する市岡忠男に沢村を紹介した。
プロ入り後
プロ野球リーグが始まる前の1935年、第一次アメリカ遠征に参加。21勝8敗1分けの戦績を残す。同じ年の国内での巡業では22勝1敗。翌1936年の第2次アメリカ遠征でも11勝11敗をあげている。そしてプロ野球リーグが開始された1936年秋に中山武とのバッテリーでプロ野球史上初(昭和初、20世紀初、大正生まれ初)のノーヒットノーランを達成する。同年12月、大阪タイガースとの最初の優勝決定戦では3連投し、巨人に初優勝をもたらした。1937年春には24勝・防御率0.81の成績を残して、プロ野球史上初となるMVPに選出された。さらにこの年は2度目のノーヒットノーランも記録するなど、黎明期の巨人・日本プロ野球界を代表する快速球投手として名を馳せた。特にタイガースの豪打者である景浦將とは良きライバルで、名勝負を繰り広げてファンを沸かせた。
しかし、徴兵によって甲種合格の現役兵として帝国陸軍に入営、1938年から満期除隊の1940年途中まで軍隊生活を送り日中戦争(支那事変)に従軍。前線で手榴弾を多投させられたことから生命線である右肩を痛めた、また戦闘では左手を銃弾貫通で負傷、さらにマラリアに感染した。復帰後はマラリアによって何度か球場で倒れたり、右肩を痛めたことでオーバースローからの速球が投げられなくなったが、すぐに転向したサイドスローによって抜群の制球力と変化球主体の技巧派投球を披露し、3度目のノーヒットノーランを達成した。
その後、応召により予備役の兵として軍隊に戻り1941年終盤から1942年を全て棒に振り、さらにはサイドスローで投げることも出来ず、肩への負担が少ないアンダースローに転向した。しかし、制球力を大幅に乱していたことで好成績を残すことが出来ず、1943年の出場はわずかだった。投手としては、1943年7月6日の対阪神戦の出場が最後で、3イニングで8与四死球と2被安打で5失点で降板となった。公式戦最後の出場は同年10月24日、代打での三邪飛であった(阪神戦の2-2で迎えた11回表、6番・青田昇の代打)。
1944年シーズン開始前に巨人からついに解雇された。移籍の希望を持っていたが、鈴木惣太郎から「巨人の沢村で終わるべきだ」と諭されて 現役引退となった。その後、南海軍から入団の誘いがあったが、固辞した。
戦死
現役引退後、1944年10月2日に2度目の応召(現役兵時代を含め3度目の軍隊生活)。同年12月2日、フィリピン防衛戦に向かうため乗船していた軍隊輸送船が、屋久島沖西方の東シナ海でアメリカ海軍潜水艦「シーデビル」により撃沈され、屋久島沖西方 にて戦死。特進で任陸軍伍長(墓標などでは特進前の兵長表記)。27歳没。
職業野球通算63勝22敗、防御率1.74。戦死後の1947年7月9日、巨人は沢村の功績をたたえて背番号14を日本プロ野球史上初の永久欠番に指定した(戦死から永久欠番指定までの間、今泉勝義と坂本茂が巨人の背番号14を使用していた)。また、同年に沢村の功績と栄誉を称えて「沢村栄治賞」(沢村賞)が設立され、プロ野球のその年度の最優秀投手に贈られることとなった。
1959年、野球殿堂入り。1966年6月25日、第27回戦没者叙勲により勲七等青色桐葉章追贈。
東京ドームそばの「鎮魂の碑」に、石丸進一ら太平洋戦争で戦死したプロ野球選手とともに銘記されている。また、故郷に程近い伊勢市岩渕町一誉坊墓地に沢村の墓が建立されており、その墓石はボールを模した形で、前面に巨人の「G」、後面に沢村の背番号「14」が刻まれている。なお、2017年に沢村の墓は縁戚者の事情により、「墓じまい」が行われ、現在は記念碑として同墓地に現存している。
なお2014年3月10日、沢村の故郷である三重県伊勢市の伊勢市倉田山公園野球場で65年ぶりに行われた阪神とのオープン戦において、原辰徳監督はじめ全選手が永久欠番「14」を付け、阪神はOBで沢村と同郷かつ、フィリピン防衛戦における戦死者である西村幸生の背番号「19」を全選手が付けて、沢村の一人娘である酒井美緒の始球式により試合が行われた。
2017年2月1日生誕100周年を迎えた。伊勢市では「沢村栄治生誕100周年記念事業」を銘打ち、3月20日〜3月26日には「沢村栄治生誕100周年記念展」が、3月22日には再び倉田山球場で、巨人 – 北海道日本ハムのオープン戦が行われた。この試合でも、巨人は高橋由伸前監督はじめ全選手が永久欠番「14」を付けた。
沢村の御霊は「御英霊」の一人として、故郷の三重県護国神社に祀られている。
伝説の速球投手
直球について、小中高と沢村と組んだ捕手の山口千万石曰く「打者の膝元でホップ」し、彼の指を曲げるほどの威力があった実際に対戦している元大阪タイガースの松木謙治郎も「浮き上がってくるのでバットに当たらない」ということを何度も強調している。
巨人軍第一次アメリカ遠征のおり、三宅大輔監督の指導により、物理学のてこの作用を応用する合理的な投球方法で、投球の際にボールを握った右腕を後方にぐんと引くバックスイングと同時に、左足を思い切り高く空中に揚げて、その大きな反動を最大限に利用し、鋭くボールを振り抜くという方法を会得。それまでの剛速球にさらにスピードが乗り、多大な効果を発揮した。三宅監督は沢村の旧来の投球フォームがこれを利用するに適していたため取り入れたという。京都学園高等学校敷地内に建立されている沢村の像の碑文
1999年放送の番組『勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー』の企画では「映像から球速を測定する」として、湯浅景元中京大学教授の協力の下、沢村の球速が159.4キロと再現された。もっとも、この再現時、沢村の映像はキャッチボール時のものしか残っておらず、「プロ野球選手がキャッチボールでは全力の何パーセントの力で投げるかの平均値」と、「足を高く上げている沢村の投球フォーム(写真。試合中のものではない)から導いた結果」である。また湯浅教授は、別媒体でも同様に、プロの投手が軽く投げる際は全力の何%ぐらいで投げているかという傾向から、160.4キロと言っている(2014年5月時点)。
その後、2015年6月11日放送の『クローズアップ現代』において、沢村の試合中の映像が見つかったことが判明したとして特集が組まれた。そこでは写真と違って実際の試合では足をほとんど上げない投球フォームであったことが判明した。そしてBSスポーツ酒場“語り亭”で前出の湯浅景元教授が実際の投球映像を元に速度を計算、「150キロ台から後半は出ていただろう」(計算上は159キロ)と算出された。
また1990年1月28日放送の『知ってるつもり?!』では、実際に沢村の投球を見たことのある生前の千葉茂と青田昇が、ピッチングマシンを相手にバッターボックスに立って沢村の球はどれくらいのものであったかを思い出してもらうというものがあったが、最終的に千葉が「これぐらいだった」と感覚で思い出した時のマシーンの速度は165キロであった。もっとも、彼らが沢村と公式戦をプレーしたのは1940年(千葉)と1943年(青田)が最初であり、この頃にはすでに沢村は全盛期を過ぎてチームの平均防御率よりも悪い成績であった。特に青田が沢村と初めてプレーした1943年に至っては、沢村の現役最終年であり、しかも沢村はアンダースローとなっており、出場14試合に対して登板4試合と、野手としての出場の方が多かった。静岡草薙球場前に建立されている沢村の像
これに対して永田陽一は、著述の資料として当時の野球雑誌を調べていて発見したとして、「沢村の快速球のスピードはどのくらいのものだったのか。プロ野球リーグが始まって2年目、1937年の雑誌は秒速37メートル(時速133キロ)と発表している。科学的計測値とするが、どれくらいの精度かは不明である。」と著述している。
完全版 沢村栄治投手の 映像発見・幻の“日本シリーズ”~フィルムからよみがえる選手たち~